高校時代には、クラスメイトから「胸の痛くなるような美人」と称されるほか、美人過ぎるという理由から日本銀行の就職試験に不合格になっていたという、山本富士子(やまもと ふじこ)さんは、1950年には、「第1回ミス日本」「ミス日本」に輝くと、その後、映画会社各社からスカウトが殺到し、「大映」に入社したそうですが・・・

「山本富士子の生い立ちは?高校時代から美人で有名だった!」からの続き

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「第1回ミス日本」で「ミス日本」に

高校時代から美人で有名だったという山本さんですが、お姉さんも美人で、1949年にはお姉さんが地元新聞の主催によるコンクールで「ミス京都」に選ばれたそうですが、

1950年3月に、読売新聞社、(当時業務提携関係にあった)中部日本新聞社、西日本新聞社が共催した「第1回ミス日本」(応募者約700人)では、山本さんも、お父さんの友人だった京都市役所の広報課だった人の推薦で(お姉さんの推薦とも)、「ミス日本京都代表」に選ばれると、その後、東京での本選で、満場一致で「ミス日本」になったそうです。

(「ミス日本」が開催されたのは、第二次世界大戦敗戦後の日本に対する救援活動「ララ物資」への感謝と日米の友好親善を行う女性親善大使の選出が目的だったそうで、山本さんは、その趣旨を知り、感動して、推薦を承諾したそうです)

「大映」に入社

そして、翌年の1951年6月には、アメリカへ親善使節として渡米したそうで、挨拶を英語でスピーチするなどして、周囲を驚かせたそうですが、

その後、54日間に及ぶ日程を無事にこなして帰国すると、映画会社各社からスカウトが殺到したそうで、当初は、女優になろうとは思っていなかったことから悩んでいると、

お姉さんから、

これからの女性は仕事を持つことよ

と、言われ、女優になる決心をしたそうで、

山本さんは、1953年、最も熱心に勧誘してくれた「大映」と契約したのだそうです。

ちなみに、山本さんは、契約時、

演技らしいものができないのに、お金をたくさん貰うわけにはいかない

と、1本あたりのギャラは、1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と、スライド制で額を上げてもらい、3年経って一人前になったら自由契約にしてもらう、という契約で映画界に入ったのだそうです。

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「大映」の強力なバックアップのもと次々と映画に出演するも人気はパッとしなかった

そんな山本さんですが、同年(1953年)、京都撮影所の所属となり、映画「花の講道館」で、長谷川一夫さんの相手役で女優デビューすると、「関の弥太ッぺ」(1953)、「丹下左膳」(1953)と、立て続けに時代劇に出演するも、”戦後初のミスコン出身女優”という話題性だけでの出演だったことから、演技もそれほど上手ではなく、人気もパッとせず。

そんな中、現代劇「浅草物語」(1953)では主演で、男に捨てられて発狂した姉の復讐のために不良少女となって復讐を果たし、自らも死ぬという壮絶な役を演じるも、「不良少女になりきれていない」と酷評されるなど、散々な結果となってしまいます。

(山本さんが現代劇を希望していたことから、「大映」がその意を汲んでくれ出演することができたそうです)


「浅草物語」より。山本さんと森雅之さん。

そして、その後も、「にっぽん製」(1953)、「金色夜叉」(1954)、「月夜よりの使者」(1954)などでヒロインを演じ、1953年には10本、1954年には8本もの映画に出演するなど、「大映」の強力なバックアップのもと、売り出されるのですが・・・

相変わらず、人気はパッとしなかったのでした。

「山本富士子が若い頃は「夜の河」で大ブレイクしていた!」に続く


「金色夜叉」より。島耕二さんと山本さん。

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