幼少期は病弱も、やがては、幼稚園でやんちゃ坊主「五人組」に数えられるほど、元気になったという、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、幼稚園の頃は、絵を描くことが大好きだったそうです。

「田原総一朗の幼少期は病弱もやがてやんちゃ坊主になっていた!」からの続き

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幼稚園の時は絵を描くことが大好きだった

田原さんが幼稚園の頃には、自由画帳に絵を描くことに熱中し、買ってもらった講談社の絵本のストーリーを題材に絵を描いたそうで、

「忠臣蔵」は、江戸城内松の廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた刃物事件から始まり、赤穂浪士四七士による吉良邸への討ち入りまでの連続の絵物語を描いたほか、

日本の神話やギリシャ神話なども読み、天岩戸(あめのいわと)や大国主命(おおくにぬしのみこと)も描いたそうです。

(※天岩戸とは、太陽の神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)が隠れたとされる岩。大国主命とは、出雲に大国をつくった国づくりの神で、スサノオの子孫で、因幡の白兎を助けた心優しき神様として有名)

「清水の次郎長」の絵を描いて幼稚園の先生に呆れられていた

また、田原さんは、浪花節が好きだったことから、広沢虎造さんのレコードをよく聞いていたそうで、その影響から、(広沢さんが歌う)「清水の次郎長」の絵を描いたこともあったそうで、

遠州・森の石松が次郎長の代表で金毘羅に行った帰りに、博打(ばくち)には勝つも、都鳥一家の吉兵衛・常吉兄弟に殺されるところまでを描いたそうですが、

幼稚園では、忠臣蔵までは幼稚園の先生にほめられるも、次郎長については、「これはちょっとやりすぎだ」と呆れられてしまったそうです。

親戚に画家がいた

ちなみに、田原さんが、なぜ絵を好きになったのか、はっきりした理由は覚えていないそうですが、影響を受けたのでは、と思われることとして、

まず、母方の親戚に画家がいたという話。

その人の作品を何度か観たことを覚えているそうで、絵を観ながら、「色はいっぱい使えばいいんだ」と感じ、以来、色をたくさん使って絵を描いたのだそうです。

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父親が絵を描くのが好きだった

もう一つは、お父さんが絵が好きだったという話。

小学生の時、絵を描く宿題が出ると、お父さんが、田原さんを差し置いて絵を描いてしまったそうで、お父さんから、「これを持って行け」と言われ、辟易(へきえき)していたそうですが、

(どう見ても大人が描いた絵にしか見えなかったそうです)

「嫌だ」とは言えず、お父さんには内緒で、こっそりと自分で別に絵を描き、家を出る時、2枚とも持って行って、途中でお父さんの描いた絵を捨てるという、面倒くさいことをやっていたそうです(笑)

「田原総一朗は小学校に入学した年に太平洋戦争が始まっていた!」に続く

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