1964年4月、「東京12チャンネル」開局記念番組「こんばんは21世紀」を手掛けると、見事、高視聴率を記録した、田原総一朗(たはら そういちろう)さんは、その後も、ドキュメンタリー番組「未知への挑戦」シリーズで成功を収めるのですが・・・思わぬ展開が待っていたといいます。
「田原総一朗は若い頃「こんばんは21世紀」で高視聴率を記録していた!」からの続き
ドキュメンタリー「未知への挑戦」を手掛ける
開局記念番組「こんばんは21世紀」で成功を収めた田原さんは、その後、「一般教養部」に配属され、「科学の絵本」(1964年4月放送)を手掛けるも、スポンサーがつかず、ワンクール(3ヶ月)で打ち切りとなってしまったそうですが、
(テレビは、スポンサーがつかないと、内容に関係なく打ち切りとなってしまうそうです)
その後、「未知への挑戦」の企画を提案し、「岩波映画製作所」に勤めていた時以来の付き合いの「八幡製鉄所」の担当者に頼み込み、スポンサーになってもらうと、
- 車の危険性について訴えた「危険なドライバー」(1964年7月26日放送)
- 誤解が膨らんでいく経緯を追った「デマ作戦」(1964年8月23日)
- 創価学会をテーマにした「人間革命」(1964年12月6日放送)
- 三池炭鉱爆発事故の後遺症に苦しむ患者たちを追った「失われし時を求めて」(1964年11月8日放送)
- 胃ガンになった女性患者の治療から生還までを追った「ガンに挑む」(1965年1月31日放送)
- どぶねずみという小動物の生態に迫った「どぶねずみ」(1965年6月20日放送)
などのシリーズを次々と手掛けたそうです。
ソ連で開催された世界ドキュメンタリー会議に日本の代表として招待される
そんな中、田原さんは、1965年7月には、ソ連(=ソビエト社会主義共和国連邦。現在のロシア)の首都モスクワで開催された世界ドキュメンタリー会議に日本の代表として招待され、モスクワに10日ほど滞在したそうですが、
帰国すると、「未知への挑戦」の担当プロデューサーが交代していたそうで、新しいプロデューサーは、独裁者とは言わないまでも、管理重視のタイプの人だったそうです。
同僚のディレクターたちに従い新しいプロデューサーと団体交渉することになるも・・・
すると、ある日のこと、この新しい上司にこっぴどく怒られた同僚のディレクターたちが集まり、この上司にどう対抗するか、意見交換をしたそうで、話し合いの結果、翌日の朝10時、全員で団体交渉しようということになったのだそうです。
(田原さんは、特に、この上司から嫌な目に遭ったことはなかったそうですが、仲間たちがやると言ったことから、一緒にやることを了承したのだそうです)
プロデューサーをたった1人で吊るし上げ「未知への挑戦」の担当を降ろされる
こうして、翌日の朝10時前、田原さんが、上司のデスク前の応接用の椅子に座って待っていると、10時過ぎにプロデューサー本人がやって来て「何か用があるのか」と聞かれたそうで、
仲間たちはまだ誰も来ていなかったそうですが、予定の時刻となったため、たった一人で団体交渉を始め、最後は、テーブルを叩いて講義し、上司を吊るし上げたそうですが・・・
それからしばらくして、田原さんは、「未知への挑戦」の担当を降ろされてしまったのだそうです。
「未知への挑戦」の成功を妬んだ同僚たちに陥れられていた?
ちなみに、ディレクターの仲間たちは、結局、1人も来なかったそうで、田原さんにだけ、団体交渉を中止する連絡を忘れたのか、または、意図的に田原さんを陥れようという謀略だったのか、いまだ田原さんには分からないそうですが、
もし、謀略だとすると、「開局記念番組が成功したり、賞を獲ったりして、いい気になっている田原をやっつけてやれ」ということだったのでは、と思っているそうです。
というのも、田原さんには、思い当たる節があったそうで、それは、ソ連に行く半年ほど前のこと、「未知への挑戦」シリーズで「ガンに挑む」という番組を作ったそうですが、この番組を「第13回民放大会」に出品したところ、銀賞(2位)を獲得したほか、「未知への挑戦」という番組自体も「テレビ記者会賞」を受賞していたそうで、「テレビ教養番組部門」でも大賞を取れると高をくくるなど、天狗になっていた自覚があったのだそうです。
(とはいえ、「未知への挑戦」は、田原さんが降ろされた後も何事もなかったかのように続いていたそうで、自分は大勢いるディレクターの中の一人に過ぎなかったのだと痛感したそうです)
「田原総一朗は昔「ドキュメンタリー青春」を制作していた!」に続く