1970年4月、「ジ・オフ・コース」として、ファーストシングル「群衆の中で」でデビューすると、当初は、ライブで酷いヤジを飛ばされることもあったという、小田和正(おだ かずまさ)さんですが、地道にファンを増やしていくと、1979年12月にリリースした17枚目のシングル(5人編成となって初のシングル)「さよなら」は、71.7万枚を売り上げる大ヒットとなります。

「小田和正は若い頃「オフコース」にロックを取り入れシャウトしていた!」からの続き

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17枚目のシングル「さよなら」が大ヒット

1970年4月、「ジ・オフ・コース」として、ファーストシングル「群衆の中で」でデビューすると、当初は、鳴かず飛ばずも、1975年12月にリリースした7枚目のシングル「眠れぬ夜」が4.6万枚、1979年1月にリリースした15枚目のシングル「愛を止めないで」が9.8万枚を売り上げると、

1979年12月には、5人編成となって初のシングルで、通算17枚目のシングル「さよなら」が、71.7万枚を売り上げる大ヒットとなります。


「さよなら」

「さよなら」は”ヒットさせなければならない”という思いで作った曲だった

実は、小田さんは、「ヒットしてほしい」ではなく、「ヒットさせなければならない」という思いで、この「さよなら」を書いていたそうで、

この頃、「オフコース」は、ヒットチャートの上位に食い込むシングルはないながら、アルバムの評価は上々で、年間150を超えるライブを行い、どこも満員となる盛況ぶりだったことから、

小田さんは、(新たに5人編成になったこともあり)そのような状況にとどまっている時は終わったと、次のステップに進むために、勢いがつく大ヒット曲が必須だと考えていたのだそうです。

「さよなら」は当初は別れの歌ではなくハッピーエンドな曲だった

こうして、ヒットを目論見、曲を作り始めた小田さんは、当初はハッピーエンドな曲を書いていたそうですが、曲入れが終わり、いざ、歌を吹き込む段階になった時、「さよなら」という言葉が頭に浮かび、そのまま、頭から離れなくなったそうで、

あ、これはちょっと、日本人の好きそうな感じのマイナーの方向にいってるな

と、感じ、

ディレクターに、

〝さよなら〟 という歌詞を思いついたので書き換えたい。だから、今日は歌えないけどいいかな

と、言うと、

ディレクターも、

ああ、いいね、それ

と、言ってくれたことから、

「じゃあ、書きなおそう」 ということになり、全面的に詩を書き換え、現在の「さよなら」の歌詞となると、「これは売れるんじゃないか」と感じたそうで、予想通り、この曲は大ヒットとなったのだそうです。

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「さよなら」の大ヒットでヒットを実感していた

ちなみに、小田さんは、「さよなら」がヒットした当時のことを振り返り、

たしか仙台のコンサートを終えてホテルに帰る途中、タクシーのなかでラジオが流れていて、「さよなら」がかかったんだよね。

「ただいま大ヒット中、オフコースの『さよなら』でした」という番組司会者の言葉を聞いた時に、「ああ、ヒットしたんだ。これだ、こういうことなんだ」と思ったね。

と、語っています。

「小田和正は「生まれ来る子供たちのために」が本当に歌いたい曲だった!」に続く

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