北海道に左官屋として出稼ぎに行っていたお父さんが他界し、お母さんが往復4時間かかる宮城県気仙沼市の工場まで働きに出る中、いつも、幼い弟の子守をしながら、お母さんの帰りを待っていたという、千昌夫(せん まさお)さんは、中学卒業後は、お母さんの意向で高校に進学したそうですが、下宿代を稼ぐためにアルバイトをする日々の中、何とか今の生活から抜け出せないか、いつも考えていたといいます。
「千昌夫の生い立ちは?幼少期は貧しい生活を送っていた!」からの続き
中学卒業後は兄にならって左官屋になろうと思っていた
千さんは、お兄さんの洋一さんが、家計を助けるため、中学を卒業するとすぐに、左官屋の年季奉公に出て、送金してくれていたことから、自分も、中学卒業後は、お兄さんに倣(なら)って、左官になろうと思っていたそうです。
(千さんの周りには、農業以外に、これといって職を持っている人がおらず、左官という職を持ち、お金を送金してくれるお兄さんを見て、自然と、自分も左官屋になってお金を稼ごうと思うようになったそうです)
母親に勧められ高校進学も下宿代を払うためのアルバイトに明け暮れていた
ただ、お母さんが高校進学を勧めたことから、水沢第一高等学校に進学したそうで、しかも、通学が、最寄りの「竹駒駅」から、片道3時間もかかることから下宿したそうですが、
お母さんの援助では、授業料を支払うのがやっとで、とても下宿代まで回らず、千さんは、下宿代を払うため、高校入学後、アルバイト(夏は自転車で水の配達、ほかの季節は河原の砂利運び)を始めたそうです。
(水沢市は人口5万人前後の小さな地方都市だったため、恵まれたアルバイトは少なく、この2つのアルバイトは、千さんが、ようやく見つけたアルバイトだったそうです。)
今の生活から抜け出す方法をずっと考えていた
こうして、千さんは、毎日、高校から下宿先に帰ると、作業着に着替えて、すぐにアルバイト先に向かったそうですが、1ヶ月働いてもアルバイト料はたかがしれており、ほとんどが、下宿代と食費に消えてしまったそうです。
そんな中、レコードを聴くことが好きだった千さんは、少ないアルバイト収入の中から、当時流行していた演歌歌手のレコードを、よく買ったそうで、疲れた身体を引きずるようにアルバイトから下宿先に帰ると、横になって、好きなレコードを聴きながら、
このまま、頑張れば、確かに学費や下宿代を稼ぐことはできる。だけど、それだけじゃないか。かりに大学に進学しても同じこと、バイト、バイトに明け暮れて卒業したにしても、サラリーマンになるのがやっと。
これじゃ学校に行っても意味がない。ぼくは人並以上に苦労している。だが、あたりまえの生き方をするのでは、苦労が実りはしない。では、どうすればいいか・・・
と、両手を枕にして天井を見つめながら、いつも考えていたのだそうです。
「千昌夫は高校2年生の時に歌手になる決意をしていた!」に続く