1965年、1stシングル「君が好き」でデビューするも、2ndシングル「若い恋人たち」、3rdシングル「君ひとり」と、売上はパッとせず、さらに、1966年秋には、師匠の遠藤さんを怒らせ、家を追い出されてしまったという、千昌夫(せん まさお)さんですが、1968年、「星影のワルツ」が大ヒットとなります。
「千昌夫が若い頃は「君が好き」でデビューするも鳴かず飛ばずだった!」からの続き
当初B面だった「星影のワルツ」が大ヒット
師匠・遠藤実さんの家を追い出された千さんは、その後、飲食店で夜のアルバイトをしながら、歌手への道を模索し続けていたそうですが、
1967年秋頃、鳴かず飛ばずだった3枚目のシングル「君ひとり」のB面(カップリング曲)の「星影のワルツ」が各地の有線放送で火がつき始めたそうで、
1968年3月に、発売元のミノルフォンレコードが、「星影のワルツ」をA面にして再発売すると、この年だけでも150万枚を売上げ、累計売上250万枚を売り上げる大ヒット。
この大ヒットにより、千さんは、1968年末の「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たすなど、一躍スターダムに駆け上ったのでした。
(ミノルフォンレコードにとっても、創立以来、これほどのヒットは初めてだったそうです)
「星影のワルツ」
「星影のワルツ」の大ヒットには千昌夫のひたむきな努力があった
ちなみに、この「星影のワルツ」大ヒットの裏には、千さん自身のひたむきな努力もあったそうで、この曲を気に入っていた千さんは、毎晩のように酒場に出向いて、店を一軒一軒訪ねて「星影のワルツ」を歌い、ほろ酔いの客にレコードを売り歩いていたほか、
10円玊をポケットいっぱいに詰め込み、夕方から夜にかけて、公衆電話で有線放送に電話をかけ、「星影のワルツ!」と、何十回もリクエストし続け、
通っていた銭湯では、「星影のワルツ」を大声で歌ったそうで、岩手県出身のズーズー弁だった千さんは、一度会ったら忘れられない歌手として、着実にファンを増やしていたのだそうです。
スターになっても節約生活を続けていた
こうして、「星影のワルツ」の大ヒットで、夢にまで見たスターの座に上り詰めた千さんは、1ヶ月に何十本というテレビ出演をこなすほか、雑誌や新聞社からのインタビューに追われるなど、これまでとは生活が大きく変わったそうですが、どれだけスターダムにのし上がっても、生活スタイルを変えることはしなかったそうです。
例えば、「星影のワルツ」が大ヒットするまで、千さんのお給料は月10万円で、そのうち4万円は岩手県に住むお母さんに送金し、残りは生活費に、(無駄遣いは一切せず)余裕がある時にはすかさず預金に回す、という(歌手にしては珍しい)節約生活をしていたそうですが、
「星影のワルツ」大ヒットしてレコード印税が入り、金回りがよくなっても、依然として世田谷区等々力のアパートに住み、これといって電化製品も揃えることもなく、
(テレビさえなかったそうです)
銀座や赤坂での豪遊、高級車や高級服への浪費も一切せず、相変わらず、ケチケチとした節約生活を続けていたのだそうです。
(雑誌のインタビュー時でも、(ステージ衣装以外では)オシャレな高級服などを着ることはなく、いつもタートルネックの服を着ていたため、タートルネックは千さんのトレードマークとなったそうです)
「千昌夫が「星影のワルツ」大ヒット後も節約生活を続けていた理由とは?」に続く