大舞台やチャンスに比類のない勝負強さを発揮して、読売ジャイアンツの黄金時代に多大な貢献をした、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、少年時代は小柄で、とても足が速かったそうです。
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幼少期は健康ですくすく育っていた
長嶋さんは、町役場の収入役や助役をやっていたお父さんの利(とし)さんとお母さんのちよさんのもと、4人兄弟(兄1人姉2人)の末っ子として誕生すると、生まれた時の体重は、3.2キロ(850匁(もんめ))で、普通よりも小さめの赤ん坊だったそうですが、病気知らずで、すくすくと健康に育ったそうです。
ちなみに、お父さんは、でっぷりと太って温厚そのもので、お母さんは、気が強い反面、とても情にもろい人だったそうです。
(長嶋さんは、お母さんが35歳の時の子供だったそうです)
小学生の時は小柄で足が速かった
そんな長嶋さんは、1942年には、町立臼井国民学校に入学すると、クラスの中で一番背が低く、毎日の朝礼では、列の最後列にくっついて並んでいたそうですが、
足が速く、走ることが得意だったそうで、徒競走では、倍くらい大きな体の上級生と一緒に走って、いつも大差をつけてゴールインしていたそうです。
(そのため、体育の時間になるのを、今か今かと、毎回、首を長くして待ち構えていたそうです)
小学生時代には戦争となるも空襲らしい空襲には遭わなかった
そんな中、戦争の色が濃くなり始めると、学校の行き帰り、カーキ色の軍服を着た兵隊が勇ましく行進しているところによく遭遇したそうで、長嶋さんは、「オイッチニ、オイッチニ」と小声で号令をかけながら、よく、行進のあとをついていったそうです。
(この兵隊らは、当時、「佐倉五七(さくらごーなな)連隊」、別名「いも連隊」と呼ばれており、「上海ウースン、クリークの激戦(ウースン上陸作戦)」で大いに奮戦しました)
また、小学2~3年の頃には、米戦略爆撃機「B29」がしょっちゅう飛ぶようになり、東京を爆撃した「B29」が、残りの爆弾を落として行き、近くの山林が派手に燃え上がったことがあったそうですが、幸いにも、長嶋さん自身は、空襲らしい空襲には遭わなかったそうです。
(「B29」は、駿河湾から富士を目標に入ってくると、東京に爆弾を落とし、房総沖へ抜けるのがコースだったそうで、長嶋さんが住んでいた佐倉は、ちょうどその帰り道にあったそうです)
戦時中には「B29」に向かって石を投げつけたことがあった
ちなみに、ある日のこと、焼夷弾(しょういだん)でもばらまかれたのか、山から東京の方角を見ると、空が一面、まるで血に染まったかのように赤く燃え上がっていたことがあったそうで、
長嶋さんは、上空を見上げ、ジュラルミン製の機影をきらめかせて飛び去っていく「B29」に向かって、
おりてこい!卑怯者・・・
と、言いながら、石ころを投げつけたことがあったそうです。
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