敗戦後、戦時中には敵性スポーツと白い目で見られていた野球が流行り始め、たちまち夢中になると、お兄さんの所属する野球チーム「ハヤテ・クラブ」で球拾いをするようになったという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、ついには、「ハヤテ・クラブ」のレギュラーになったそうですが、最初の頃は、ボール作りばかりしていたといいます。

「長嶋茂雄は少年時代に父親にグローブを買ってもらい嬉しくてたまらなかった!」からの続き

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野球チーム「ハヤテ・クラブ」に入るも毎日ビー玉で野球のボール作りをしていた

お父さんに新しいグローブを買ってもらい、嬉しくてたまらなかったという長嶋さんは、ついには、小学生にもかかわらず、倍も年の違う上級生に混じり、「ハヤテ・クラブ」のレギュラーになったそうで、ポジションはショートを担当したそうですが、最初の頃は、ボール作りのほうが忙しかったそうです。

というのも、当時、「ハヤテ・クラブ」では、野球のボールは、ビー玉を芯にして、干した里芋の茎を細かくほぐしたものをくるくると巻きつけ、その上に、ひょうたん型に切り取った布を二枚ぴったりと合わせて糸でかがったものを使っていたそうで、長嶋さんは、このボールを作る作業をしていたのだそうです。

ただ、長嶋さんは、この作業がどうも苦手だったそうで、いつも、お母さんが見かねて手伝ってくれ、長嶋さんはそれを待ちかねて、表に飛び出して行っていたそうです。

(お母さんの手は野良仕事でひび割れていたそうですが、まるで魔法のようにすばやくボールを縫ってくれたそうです)

竹で作ったバットを使用していた

ちなみに、バットはというと、本式のバットはまだ高価だったため、長嶋さんは竹バットを使用していたそうで、道具はお粗末で、野球のルールも怪しげなものだったそうですが、とにかく楽しくてたまらなかったそうです。

(メンバーも、もっぱら近くの山から切ってきた杉丸太を削ってバッドの代わりにして使っていたそうです)

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進駐軍のゴルフボールで野球のボール作りをするようになっていた

そんな中、やがては、ボールの芯にぴったりの「白いゴムのタマ」が鷹野台あたりにたくさん転がっている、という耳寄り情報が入ってきたそうで、実は、この「白いゴムのタマ」というのは、ゴルフボールなのですが、

(長嶋さんたち小学生は、ゴルフというスポーツは見たことも聞いたこともなかったそうです)

鷹野台は、昔から千葉県で有名なゴルフの名門コースだったことから、進駐軍関係者が鷹野台でゴルフを楽しんでおり、そのロストボールがコースの外に散らばっているのを誰かが見つけてきたそうで、

それからというもの、長嶋さんとお母さんは、大忙しで野球のボールを作ったそうですが、これまでの、ビー玊の芯とは違い、作るのが楽だったうえ、打っても、本当によく飛んだそうで、進駐軍のおかげで、「ハヤテ・クラブ」のバッティング技術も急激にレベルアップしたのだそうです。

「長嶋茂雄は少年時代から足が速く徒競走でも活躍していた!」からの続き

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