野球チーム「ハヤテ・クラブ」では、小学生にもかかわらず、倍も年の違う上級生に混じってレギュラーになったという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、中学に進学すると、足の速さから、野球だけでなく、徒競走でも活躍したそうです。
「長嶋茂雄が少年時代は野球ボールを手作りしていた!」からの続き
小学5年生の時には得意の俊足で陸上競技でも優勝していた
長嶋さんは、足が速かったことから、臼井小学校では、野球だけではなくジャンプと徒競走の選手としても活躍していたそうですが、近くの志津小学校には、村山君というジャンプと徒競走が評判の少年がおり、
長嶋さんが小学5年生の時、この志津小学校との対抗競技会の当日には、担任の小倉先生から、ものすごい顔つきで、
おい、長嶋。あの村山にだけは絶対負けるなよ
と、ハッパをかけられたことから、
(小倉先生は、予科練帰りで威勢がよく、敢闘精神の塊(かたまり)みたいな先生で、なにかというと精神力を強調していたそうですが、当時の長嶋さんにとって、先生の一言は金科玉条のようなものだったそうです)
60メートル競走と走り幅跳びの二種目で、死にもの狂いで頑張ると、結果、ライバルの村上君に勝ち、見事、長嶋さんら臼井小学校が優勝することができたそうで、
感激屋の小倉先生は、
よくやった!
と、泣いて喜んでくれたそうですが、
長嶋さんは、後に、阪神タイガースの村山実投手とライバルと呼ばれるようになっており、最初のライバルが「村山」という名前だったことに、奇妙な縁を感じたそうです。
中学校で山本薩夫監督映画「真空地帯」の撮影が行われていた
そんな長嶋さんは、1948年春、佐倉・臼井二町組合立中学校(現・佐倉中学校)に進学するのですが、入学してまもなく、山本薩夫監督の映画「真空地帯」のロケ班が、撮影のため、中学に来るようになったそうです。
というのも、校舎はもともと旧佐倉五七連隊が使っていた兵舎だったそうで、板張りの教室や廊下には、まだ軍靴のにおいが生々しく残っており、一歩校舎に入ると、「オイッチニ、オイッチニ」と掛け声の一つでもかけたくなるような雰囲気だったそうで、兵舎が原型のまま残っていることや、東京からそう遠くない所にあったことから、映画のロケに選ばれたのだそうです。
また、セットではなく、本物の兵舎だったため、教室の机や椅子を片付けて、窓ガラスに爆風よけの紙切れを米印型にベタベタ貼り付けると、それで準備完了となったことから、仕事が早くできたことも、映画の撮影にちょうど良かったのだそうです。
山本薩夫監督映画「真空地帯」の撮影の迫力に驚く
さておき、人一倍、野次馬根性の強かった長嶋さんは、授業もそこそこに、自慢の俊足を飛ばして撮影現場に駆けつけたそうですが、
ある日、
オリャーツ!
と、すごい気合が教室いっぱいに響き渡ったことから、びっくりしてのぞき込むと、
ちょうど、主演の木村功さんが、猛烈なビンタを受けてすっ飛ばされるシーンの撮影だったそうで、もちろん、本当に殴っている訳ではなかったのですが、それを分かっていながらも、思わず目をつぶってしまうほどの迫力だったそうです。
また、同様に、利根はる恵さんという、(ちょっと下膨れの)女優が放つお色気の迫力にも、まだ中学に上がったばかりの長嶋さんは、タジタジとなったのだそうです(笑)
そんな長嶋さんは、この映画が封切られるとすぐに、近くの映画館に観に行ったそうですが、映画の影響を受け、しばらくは、
オリャーツ!
と、気合をかけてビンタを食わす真似ばかりやっていたのだそうです(笑)
「長嶋茂雄は中学生の時1度だけケンカ騒ぎを起こしていた!」に続く