高校時代、後楽園球場に足繁く通っては、プロ野球の一流選手たちのバッティングを目をサラのようにして観察し、帰宅後、庭の柿の木の下で、自分で実況中継をしながら、素振りをしていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、当時は、まだ、バッティング技術に乏しく、センター方向にしか打つことができなかったそうです。

「長嶋茂雄は自宅の庭の柿の木の下で一流選手を真似て素振りしていた!」からの続き

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高校時代はセンター方向にしか打てなかった

長嶋さんは、高校時代、センター中心に打ち返すバッティングしか出来なかったそうですが、

(長嶋さんいわく、好打者という意味ではなく、本当のところ、そのようなバッティング以外できなかったそうで、インコースの球がまるっきり打てなかったことから、打球がレフト方向に飛ぶことはまるでなく、真ん中からアウトコース寄りの球を専門に打つため、自然と打球はセンター中心に集中したそうです)

それでも、夕暮れ時の素振り練習が功を奏したのか、高校2年生の秋ごろから、急に打球が伸びるようになり、90メートル以上飛ぶようになったそうです。

(一見、ふわっと高く上がるフライのように見えて、ぐんぐん伸びるようになってきたそうです。ただ、その打球は、全部、センター方向だったそうです(笑))

打球がセンター方向にしか打てなかったため後方にある講堂の屋根瓦をいつも砕いていた

そして、センターの後方には、重たそうな屋根瓦を乗せた講堂があったことから、長嶋さんの打球は、その瓦にビシッビシッと命中し始め、毎日、練習のたびに、10枚近く木っ端微塵(こっぱみじん)に砕いてしまったそうで、

(長嶋さんが通っていた佐倉一高は、古い歴史を持つ学校で、前身は堀田藩11万5千石の藩校だったそうですが、古い学校だっただけに、グランドは野球向きにできておらず、ホームプレートからフェンスまでは、せいぜい80メートルぐらいしかなかったそうで、右中間がとても浅く、また、センター後方には講堂がでんと建っていたそうです)

野球部長の井原善一郎さんには、グランドに砕け散っている屋根瓦の残骸(ざんがい)を指差しながら、

あのな、長嶋、もうちょっとライト寄りかレフト寄りに打ってくれんか。あれじゃたらんのだよ

・・・なんせ、きみも知っているように野球部の予算がピーピーでな

と、言われたそうです。

そこで、長嶋さんは、

すみません、ご迷惑かけて・・・

と、頭をペコリと下げたそうですが、

井原さんは、そんな長嶋さんを手で制しつつ、

いやいや、別にきみが悪いわけじゃないんだ。気にしなくてもいいんだ。しかしなあ・・・

と、言葉を濁(にご)したそうです。

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野球部長の井原善一郎に角度を変えて打つことを懇願されるも技術が追いつかなかった

ちなみに、井原さんによると、当時の佐倉一高野球部の部費はせいぜい1年間で5~6万円というところで、高価そうな大きな屋根瓦を1日10枚も弁償していては、県外試合に遠征もできなくなってしまうため、

長嶋なあ・・・講堂に当たらんように、角度を変えて打つことはできんか!!

と、無理な注文を出していたそうですが、

長嶋さんはというと、そうしたくても、そんな技術はまだ持っておらず、そんな井原さんの悲鳴をよそに、結果、毎日のように、講堂の瓦をこなごなに砕いていたそうです(笑)

「長嶋茂雄は高校時代ショートもエラーの連続でサードに変えられていた!」に続く

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