仮死状態で生まれ、幼少期、病弱だったにもかかわらず、お母さんの献身的な世話などで、無事、健康に育ったという、王貞治(おう さだはる)さんは、4歳の時にはお母さんの背中で東京大空襲に遭ったそうですが、家は焼け落ちたものの、家族全員、無事、生き延びることができたといいます。

「王貞治は仮死状態で生まれ幼少期は病弱だった!」からの続き

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4歳の時に東京大空襲に遭う

王さんが4歳の時(1945年)、東京の街は戦争一色で、戦局の悪化を受けて、姉の幸江さんと順子さんは茨城県の笠間というところに疎開していたそうですが、国民学校(小学校)6年生だった幸江さんは、卒業式のため、3月3日に東京に戻ってきたそうで、

3月9日の夜、幸江さんは、兄・鉄城さんに勉強を見てもらい、その後、就寝したそうですが、その直後、空襲警報が鳴り始めたそうで、家族は一旦、防空壕(ごう)に入ったそうです。

しかし、どうも今回は様子が違う、逃げたほうがいい、ということになり(東京大空襲)、すぐ近くに荒川が流れていたため、いざという時には土手を逃げようと、あらかじめ申し合わせて防空壕を出たそうですが、そこはすでに焼夷弾(しょういだん)が落とされており、逃げ惑う人々で混み合った町の中を逃げざるを得なくなったそうです。

南東の方向(わずかに北側)に逃げて無事だった

そこで、お母さんは王さんを背負い、幸江さんはリュックに位牌(いはい)を入れ、猛火の中、火の手を逃れようと、近所の人たちと共に南東の方に逃げたそうですが、

(お父さんとお兄さんは店を守ると言って残ったそうです)

同じ南東でも、多くの人が亀戸(かめいど)方面に逃げる中、お母さんと幸江さんは、わずか北側のコースを通り、錦糸町にあった精工舎(現在のセイコー)の辺りから平井(江戸川区)方面に逃げると、無事に逃げ切ることができたそうで、平井の手前にあった川の川べりで一夜を明かしたのだそうです。

(亀戸方面に逃げた人たちの多くは亡くなったそうです)

ちなみに、空襲が止んで火勢が弱まった際、幸江さんがお母さんの背中におぶられている王さんの様子を見ると、ぐったりとしていたそうですが、幸江さんが王さんの口に手を当てると、息をしていたそうで、王さんは、熱風の中でもお母さんの背中で安心し、熟睡していたのだそうです。

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家は焼け落ちて失くなっていた

そして、夜が明けると、王さんをおぶったお母さんと幸江さんは、まだ焼けて火照っていた道を、家を目指して、歩いて帰ったそうですが・・・

(その道すがらには、丸焦げになった遺体があちこちに横たわっていたそうです)

家があった場所まで戻ってくると、家は焼け落ちてなくなっており、お父さんが立ちすくんでいたそうです。

(野ざらしになると、家の敷地は思ったよりも狭かったそうで、幸江さんは、思わず、「お父さん、こんな狭いところに(家が)建っていたいたんだね」と話しかけたそうです)

ちなみに、お父さんは家の近くのどぶ川にかかる橋の下で水に浸かりながら猛火をしのぎ、お兄さんもなんとか助かったそうですが、

そんな中、お兄さんは、当時、学徒動員で通っていた軍需工場が心配で見に行っていたそうで、そんなお兄さんを、お父さんは「よく行ってきたね」と褒めたそうですが、

王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、

自分の家が焼けたのに、工場のことなど気にかけていられるものかと思うが、父も兄も、とにかくきまじめで責任感があり、他人に迷惑をかけない、不義理をしないという点で徹底していた。

と、綴っています。

「王貞治の少年時代は父親の作る炒飯が大好物だった!」に続く


もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)

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