4歳の時には、東京大空襲に遭うも、お母さんの背中に背負われ、なんとか逃げ切ることができたという、王貞治(おう さだはる)さんは、戦後、日本が貧しかった時代にも、お父さんが中華料理店を営んでいたことから、お父さんの作る中華料理を食べて、すくすく育ったそうです。
戦中戦後の貧しい時期にもかかわらず父親が中華料理店をしていたお陰で食べ物に困らなかった
王さんが生まれてから少年時代までの戦中戦後は、日本が貧しかった時代で、小中学校のクラス会で集まれば、必ず、「ひもじい思いをしたねえ」 という話になるそうですが、
王さんは、お父さんが中華料理店を営んでいたお陰で、食べ物には困らず、育ち盛りの時に、ちゃんとご飯を食べることができたため、すくすくと育ったそうです。
少年時代は父親の作るチャーハンが大好物だった
そんな中、王さんは、特に、お父さんが作るチャーハンが大好きだったそうで、具は、ネギ、チャーシュー、卵が入っている程度だったそうですが、とにかく、お父さんは手抜きをしなかったそうで、
カツライスやカレー用のご飯は普通に炊き、あとで火を通すチャーハン用のご飯は固めに炊くなど、メニューによってご飯を炊き分けていたほか、麺やチャーシューも自家製だったそうです。
(チャーシューを煮ると、その汁がラーメンのスープになったそうで、中華料理には全く無駄がなかったそうです)
少年時代は父親が麺を打つ様子を見るのが好きだった
また、お父さんの中華料理店「五十番」には、店の離れに製麺機が据えてあったそうで、大きな板の上に小麦粉を乗せ、スパゲティーの生地を作るように真ん中に穴をあけて卵を落とし、少しずつ分けて水を加えながらじっくりこねると、バラバラだった粉がだんだんくっついてまとまっていき、こね上がった生地を斜めに傾斜した台に乗せて何度もローラーにかけて伸ばし十分に薄くすると、最後に、生地を切る機械に通し、麺になったそうですが、
子どもだった王さんは、飽きもせずに、お父さんが麺を打つ様子をいつまでも見ていたそうです。
(お父さんは、最初は、真っすぐな麺だけを作っていたそうですが、やがて、縮れ麺が流行るようになると、お客さんのニーズに応えるために、縮れ麺のための機械も買い足したそうです)
父親の中華料理店「五十番」の味には日本への感謝の気持ちが込められていた
ちなみに、王さんには、お父さんの中華料理店「五十番」の料理がおいしかったかどうかは分からないそうですが、間違いなく、「五十番」の味には、「日本に来て、日本に生かされている」 というお父さんの思いが込められていたそうで、
店じまいした後でも、近所の人が何か食べさせてほしいと店の戸を叩けば、お父さんは、火を起こして、一杯のラーメンを作るなど、時間帯に関係なく働いていたそうで、
(当時は燃料としてコークス(石炭を蒸し焼きにして炭素部分だけを残した燃料)を使っていたそうですが、コークスは火力が強く、火持ちが良いという利点がある一方で、着火性が悪く、ガスのように、カチッと火をつけるだけ、というわけにはいかなかったそうです)
王さんは、この町に溶け込もうとするお父さんの気持ちそのものが、「五十番」の味だったのではと思っているそうです。
(ただ、お父さんが働き出すと、時間外でも、従業員は休むわけにいかなかったため、それが嫌で辞めた人もいたそうです)
「王貞治は少年時代ボールを追いかけて転び上の前歯を欠けさせていた!」に続く