小学4年生の時に、お兄さんに野球部の合宿に連れて行ってもらったことがきっかけとなり、本格的に野球を始めると、投手で4番を務めるほど野球が上手だったという、王貞治(おう さだはる)さんは、中学生の時には、高校生が主体の「厩四(うまよん)ケープハーツ」に入部したそうです。

「王貞治は少年時代ボールを追いかけて転び上の前歯を欠けさせていた!」からの続き

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中学生の時には高校生主体の野球チーム「厩四ケープハーツ」に入部

小学生の時に野球に夢中になると、小学4年生の時には、クラスの仲間と野球チームを作り、本格的に野球をするようになったという王さんは、1953年春、区立本所中学校に進学したそうですが、

学校には野球部がなかったことから、高校生が主体の「厩四(うまよん)ケープハーツ」という野球好きの町工場のおじさんが作ったクラブに入ったそうです。

(「厩四ケープハーツ」という名前は、「厩四」は、 墨田区の地名の「厩橋四丁目」から、「ケープハーツ」は、1950年に社会人野球の代表と戦うために来日したアメリカのチームの名から名付けられたそうです)

中学生ながらカーブを投げる投手に成長していた

そんな王さんは、まだ、中学生だったため、試合の後に酒屋のお兄さんからジュースをおごってもらうのが楽しみで、無邪気に野球をしていたそうですが、ほどなくしてカーブも投げられる投手となったそうで、

王さんは、著書「もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)」で、

振り返ってみると、私は大学生の兄にくっついて野球の合宿にお供していた時から、常に年上の人と遊んでいた。ひと回りもふた回りも大きな上級生にもまれているうちに〝飛び級〟で野球を覚えたのかもしれない。

と、綴っています。

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中学生の時には小畑勝義とバッテリーを組み区大会で優勝していた

ちなみに、当時、王さんは、同じ本所中学校の小畑勝義さんとバッテリーを組んでいたそうですが、やがて、「本所中学に凄いのがいるらしい」という噂が広まるようになったそうで、

そんなある日のこと、テニス部の顧問の先生が、「こんなものが来ているんだが」と、東京都の野球大会の招待状を持ってくると、本所中学校では、急遽「本所」の「H」のマークが入ったユニフォームをあつらえ、何とかメンバーをかき集めて野球チームが作られたそうで、

(バッテリーがしっかりしていれば野球になると思っていたそうです)

急ごしらえの素人の寄せ集めのチームだったそうですが、大会に臨むと、本所中学校は、あれよあれよと勝ち進み、結果、区大会で見事優勝したのだそうです。

(残念ながら都大会は2回戦で負けてしまったそうですが、今では、無邪気に野球を楽しめた頃のとても良い思い出となっているそうです)

「王貞治は中2の時に荒川博から勧められ「左打ち」に転向していた!」に続く


もっと遠くへ 私の履歴書(日本経済新聞出版)

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