1973年には、川上哲治監督から事実上の引退勧告を受けるも、頼み込み、もう1年現役を続けることになった、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、やはり、思うような活躍は出来ず、1974年10月14日、現役を引退します。
「長嶋茂雄は川上哲治監督から事実上の引退勧告を受けていた!」からの続き
右手薬指を骨折し全治1ヶ月と診断されていた
ペナントレースも大詰め、明日から阪神と優勝争いの2連戦が始まる10月9日の夜に、川上哲治監督から事実上の引退勧告を受けるも、食い下がり、なんとか、現役を続行することになった長嶋さんは、
10月10日の阪神戦では、苦手だった下手投げの上田二朗投手から、気合で2本のタイムリーを含む3本のヒットを打ち、その翌日の10月11日の阪神との第二戦では、久しぶりに4番に座るのですが・・・
守備の時、後藤和昭さんが打ったゴロを右手薬指に受け、指が逆の方向へひん曲がってしまったそうで(第3結節の骨折で全治1ヶ月)、わずか2イニングで終わってしまったのでした。
(残り3試合は欠場)
打率がみるみるうちに下がっていった
それでも、翌年の1974年、すっかり右手薬指の骨折も癒えた長嶋さんは、4月6日の開幕戦でレフト中段にライナーで運ぶホームランを打つと、その後も、7試合で3本のホームランを放つなど、上々のスタートを切るのですが・・・
5月7日からのロード以降、打率はみるみるうちに下がったそうで、広島遠征の際には、スタンドのファンに頭から紙コップのビールを浴びせられたのだそうです。
現役を引退
こうして、さっぱりヒットが出ない中、6月13日、後楽園での中日戦の2時間前には、ついに、川上監督に呼ばれ、
今日はスタメンを休んでくれ
と、短く告げられると、
(激しいペナントレースの真っ最中に、9人のメンバーから自分の名前が消えたのは、これが初めてだったそうです)
その後は、1番、5番、3番・・・と目まぐるしく打順が変わるようになったそうで、それでも、試合さえ出られれば、何番でもいいと思っていたという長嶋さんですが・・・
同年のオールスター戦出場後、ついに、川上監督と球団に引退の意思を伝えると、10月12日の午前中には、改めて、川上監督、読売新聞本社の務台光雄氏、オーナーの正力亨氏に、この年限りでの引退を正式に伝えたそうで、
同日、神宮球場でのヤクルトとの試合終了後(この日、中日の優勝が決定)、川上監督と共に記者会見し、
今年はプレーしていて肉体的な衰えを強く感じることがありました
できることならば、明日(13日)のペナントレース最終ゲーム(後楽園で中日とダブルヘッダー)において、ファンの皆様の前でひとつ“引退”ということを皆さんにお話しして、そしてお別れの言葉を述べさせてもらいたい。そういう心境でございます
と、引退を表明したのでした。
最終打席はショートゴロ併殺打
そして、翌日の13日は雨だったことから14日に順延となり、長嶋さんは3番・三塁手で出場すると、中日が主力を優勝祝賀パレードで欠いたメンバーだったとはいえ、4回裏の第2打席には、村上義則投手から現役最後の本塁打となる15号2ランホームランを放ち、
試合終了後には、自身の強い希望で、球場のファンに直接挨拶するため、一塁側ベンチを出てライトの外野方向へ手を振りながら歩いて、場内を一周。
(長嶋さんは、歩きはじめると、やがて、涙が止まらなくなり、途中で嗚咽しています)
続く第二試合では、4番・三塁手で出場すると、
(「4番サード長嶋」とアナウンスされると後楽園球場は大歓声に包まれたそうです)
5回裏の第2打席には、現役最後の安打となるセンター前ヒットを放ち、8回裏一死一、三塁の場面で迎えた現役最後の打席は、ショートへの併殺打となったのでした。
(最終打席は、中日の佐藤投手の前にショートゴロに倒れるも、秋晴れの中、スタンドを埋め尽くしたファンから拍手を受けつつ、ファーストを懸命に駆け抜けた時には、やるだけやったという爽やかな充実感で満たされたそうです)
「長嶋茂雄の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」に続く
1974年10月14日、後楽園球場で行われた中日戦の試合終了後の引退セレモニーで、「我が巨人軍は永久に不滅です」とファンに別れを告げる長嶋さん。