開幕2日目に2打席連続ホームランを放つと、その後も、順調にホームランを重ねていた、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、やがて、成績が下降したことから、打撃を活かすため、捕手から一塁に転向を命じられると、再び、勢いを取り戻すことができたのですが・・・
「田淵幸一が若い頃は江夏豊と「黄金バッテリー」と呼ばれていた!」からの続き
6月に成績が下降していた
田淵さんは、1969年6月1日の時点で、打率2割7分6厘(打撃30傑の14位)、8本塁打、22打点の成績を残しており、ルーキーとしては、かなり健闘していたのですが、
6月19日の時点では、打率は、2割5分4厘まで落ち、ホームランも5月21日の広島7回戦の8号ホームラン以来、ぷっつりと途絶えてしまったそうです。
(その間に、阪神も7連敗するなど一気に5位に転落してしまったそうです)
成績下降の原因は?
そして、その理由としては、
- 学生時代には経験のない長期戦でコンディションの調整がうまくできなかった
- 子供のころから胃腸が弱く、梅雨時期になるとよく下痢になっていた
- リードに神経を使い、夜よく眠れなかったそうで、頬がこけ、目の下にはうっすらと隈(くま)のようなものが出始めていた
などが考えられたのだそうです。
捕手から一塁に転向し打撃・守備ともにキレが戻ってくるも・・・
そのため、チーム(阪神)の危機も感じた後藤監督が、
捕手で四番はたしかに希少価値はある。けど、田淵の打撃力を生かすには、神経をすり減らす捕手はマイナスやと思う。プレッシャーの軽い守備位置で伸び伸び打たせた方がええ
と、6月23日の広島13回戦で、田淵さんを一塁に先発起用すると、
後藤監督の予想通り、田淵さんは、三回1死二塁のチャンスでは、20試合ぶりのタイムリーとなる右中間への二塁打、五回にも無死一塁で左前安打と打ちまくり、
守備でも、三回1死一塁で、山内選手の一、二塁間のゴロを、素早く二塁に投げて二封するなど、キレのある動きをみせると、
6月26日のアトムズ11回戦では、一回1死、二塁に安藤さんを置いて、石戸投手の3球目、内角よりのシュートを左中間席へ運び、久々にホームランを放ったのでした。
野田誠三オーナーの命令で再び捕手に戻され眠れぬ日々が続いていた
しかし、そんな矢先の7月3日、野田誠三オーナー(阪神電鉄社長)から後藤監督に、「田淵は捕手で育てろ」の指令が下ったそうで、田淵さんはせっかく調子が戻って来たところを捕手に戻され、再び眠れぬ日々が続いたのだそうです。
(後藤監督は、田淵さんを一塁で起用する時は、「オーナーにお伺いをたてる」と言っていたそうです)
「田淵幸一はルーキーでオールスターに出場しホームランを放っていた!」に続く