1968年に阪神タイガースに入団して以来、1978年までの10年間で、球団史上最多本塁打となる通算320本塁打を放ち、ミスタータイガースと呼ばれていたにもかかわらず、1978年には、まさかのトレードを通告された、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、なぜ、トレードされることになったのでしょうか。今回は、考えられている主な理由をご紹介します。
「田淵幸一は西武へのトレードを深夜に呼び出されて通告されていた!」からの続き
怠慢プレーのイメージが付き始めていた
田淵さんは、1976年8月1日の巨人戦で、9回に同点に追いつかれた後の2死、一、二塁という場面で、安仁屋宗八投手(阪神)の投球が淡口憲治選手の足に当たってバックネット方向に転がった際、デッドボールだと思い込んで捕りに行かなかったそうですが、
コールがなかったため、山本文男球審に抗議すると、その間に、王貞治さんが二塁から一気に生還したことから、「怠慢プレー」と厳しく批判されたそうで、この頃から、イメージが徐々に悪くなっていったといいます。
いつも故障を抱え捕手の動きなど守備が鈍くなってきていた
また、田淵さんは、1970年8月に左こめかみに死球を受けて以降は、ファウルフライに反応できず、全力疾走も厳しくなるほか、毎年、肩、腰、膝、肘、アキレス腱などに故障を抱えていたそうですが、
1977年7月13日の大洋(現・DeNA)戦で、田村政雄投手から死球を受けて右手親指を骨折すると、この影響により、入団5年目まで5割以上の盗塁阻止率を誇っていた肩も衰えたのだそうです。
急性腎炎の影響で太り「がんばれ!!タブチくん!!」の連載で「デブでドジ」なイメージが定着していた
さらには、1971年に患った急性腎炎の影響で、体質が変わり、太り始めていたところ、漫画「がんばれ!!タブチくん!!」の連載が始まり、「デブでドジ」なイメージが定着していったそうで、
同僚だった川藤幸三さんは、
ブッちゃんは、腎臓も患っていて投薬治療の影響で太めになっていた。捕手の動きが鈍くなり、捕逸も目立った。そんな姿が「がんばれ !! タブチ君 !! 」の漫画に描かれたりもした。でもまさかチームの看板をトレードするなんて。
と、明かしています。
ドン・ブレイザー新監督の戦力構想に入っていなかった
そんな中、1978年には、阪神が41勝80敗9分けで球団初の最下位に転落したことから、新たに球団社長に就任した小津正次郎氏が、阪神初の外国人監督(日系は除く)であるドン・ブレイザー氏を招くのですが、
田淵さんは、若手への切り替えを進めるブレイザー監督の戦力構想に入っていなかったそうで、
田淵さんは、著書「我が道」で、
そして78年。私は38本塁打を放ったが、阪神は 球団史上初の最下位に沈む。スケープゴートが必要だったのだろう。
と、綴っているほか、
※スケープゴートとは、ある集団に属する人がその集団の正当性と力を維持するために、特定の人を悪者に仕立てあげて攻撃すること
あるインタビューでは、
ブレイザーが新監督になって、たぶん”ああいうやつはいらん”とフロントに言ったんじゃないですかね。僕は当時、走れない、守れない選手の典型と言われてましたから。
でも今はトレードに出されて良かったと思っています。根本陸夫さん(当時の西武の監督、のちにGM)に出会えたし、広岡達朗さんの下では優勝、日本一も経験できましたから・・・
と、語っています。
(田淵さんを放出する青写真を描いたのは、ブレイザー監督だったと言われています)
「田淵幸一は根本陸夫監督に惹かれ西武への移籍を受け入れていた!」に続く