12歳の時には空襲に遭うも、奇跡的に逃がれて生き残ったという、中西太(なかにし ふとし)さんは、終戦後は、健康優良児ですくすくと育ったそうで、小学校の担任の先生に教えてもらった野球(三角ベースボール)に夢中になったといいます。

「中西太は少年時代に奇跡的に空襲から生き延びていた!」からの続き

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野球(三角ベースボール)に夢中になっていた

1945年8月15日に終戦を迎えると、すべてが荒廃し、絶望感が漂い、生きていくだけで精一杯の世の中だったそうですが、

中西さんは、小学校の担任の先生に野球(三角ベースボール)を教えてもらったそうで、焼け野原の中、スポンジ製の球を使った野球(三角ベースボール)に夢中になったそうです。

(グラブもバットもなかったことから、棒きれで打ち、素手で捕球したそうです)

少年野球チームでも強打者だった

やがて、中西さんは、「オール今橋」という少年野球チームにも所属して、豪打を振るったそうで、後に、高松商業高校で一塁手となり、何度も中西さんと対戦したという、少年野球チーム「オールワシントン」に所属していた、平山碧(ひらやま みどり)さんは、

(中西さんは)小さい頃から驚くような本塁打を打った。私はヒットだが、中西はドカンッ! だから、かなわない。

体は大きくないのに、木製バットを下半身で打つから打球が遠くに飛んだ。ゴジラといわれた松井(秀喜)より、清宮(幸太郎)よりすごかった。高校野球史上では間違いなく最強打者だろう。付け加えさせていただくと、日本は世界で通用するには、木製バットにすべきだ。

と、語っています。

(また、中西さんは、市内の学童大会の短距離走で1等になるほどの俊足だったそうです)

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中学生の時に野球部に入部するも練習は厳しかった

そんな中西さんは、終戦後の翌年の1946年、戦災に遭った高松市内で、唯一、校舎が焼け残った旧制中学校に入学すると、当初は、スピード感のあるバスケットボールにも興味を持ったそうですが、先輩の柏野さんに誘われて硬式野球部に入部。

(中西さんほか部員たちは、硬式ボールに触るのが初めてだったため、「本球だ、本球だ」と言って、大騒ぎとなったそうです)

ただ、新入生は、水くみ、ボール拾い、ボール磨き、ボール修理が主な仕事で、練習といえば、ランニング、柔軟体操、キャッチボール、素振りぐらいしかさせてもらえなかったうえ、予科練帰りの先輩もいて、練習は、ただただ厳しかったそうで、

(実践練習ができるのは上級生だけだったそうです)

至近距離で手加減なしで集中キャッチボールをさせられた際には、(満足な道具がなく、グラブがなかったことから)手に血がにじむほどだったほか、ベースランニングも熾烈を極めたそうです。

ちなみに、上級生からは、鉄拳、説教など当たり前に行われていたそうですが、戦中戦後、物心ついたときから軍人に憧れ、海軍兵学校に入ることを夢見ていたという中西さんは、そんな心身の鍛錬が上達の道だと信じて疑わず、不満を抱いたことは一度もなかったのだそうです。

(特に、石清尾八幡宮での階段上りは足腰が鍛えられて強靭な下半身が出来たそうで、ここでの頑張りが、後の千本ノックに耐えられる体力とバネを生み出したのだそうです)

「中西太は中学3年生で春の高校野球(選抜甲子園)に出場していた!」に続く

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