ダイエーホークス監督就任1年目の1990年は、ダントツの最下位に沈んだほか、シーズン終了後には、旧友の山本浩二二さん率いる広島のトレード要員をうっかり漏らし、謝罪会見に追い込まれるも、2年目の1991年には5位、3年目の1992年には4位と、一つずつ順位を上げていった、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、1992年のシーズン途中、監督を解任されてしまいます。

「田淵幸一はダイエー監督時代に広島のトレード要員をうっかり漏らしていた!」からの続き

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5位、4位と少しづつ順位を上げていくも・・・

監督就任1年目のシーズンは、戦力不足に加え、コーチ陣の意見に聞く耳を持たず、選手ともコミュニケーションがうまくとれなかったことから、ダントツの最下位に沈むも、シーズン終了後には、古巣・阪神とのトレードが実現するほか、

(ダイエー側からは、藤本修二投手、吉田博之選手、西川佳明投手、近田豊年投手、右田雅彦選手の5人、阪神側からは、大野久選手、池田親興投手、岩切英司選手、渡真利克則選手の4人)

権藤博さんを投手コーチに招聘し、門田博光選手も3年ぶりに復帰したことから、徐々に戦える形ができていったそうで、

(秋季キャンプからは、選手たちと腹を割って話せるようになったそうです)

2年目の1991年には、先発からストッパーに転向した池田親興投手が活躍するほか、大野久選手が盗塁王に輝き、5位に浮上。

そして、3年目の1992年には、佐々木誠選手が、164安打(最多安打)、打率3割2分2厘(首位打者)、40盗塁(盗塁王)の活躍で、4位となり、一つずつ順位を上げていったそうで、

福岡ドーム球場も完成し、来年こそはAクラスに入るぞ、と燃えていたそうですが・・・

ダイエーの監督を解任される

水面下では、田淵さんの恩師・根本陸夫さんが次期監督に決定したそうで、田淵さんは、3年契約満了後、ダイエーの監督を解任されたのでした。

ちなみに、産経新聞の担当記者の田所龍一さんによると、

それを知った田淵さんは、

そんなはずはない。オールスター休みにオーナーと食事したとき、はっきりと『来年も頑張ってください』と言われたんだ

と、言ったそうで、

田所さんは、

食事の席で誰が「来年はクビです」と言うんですか

と、言ったそうですが、

それでも、田淵さんは、

でも、オレはオーナーの言葉を信じたい

と、語っていたそうです。

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妻・有加の説得で辞任を表明

とはいえ、最終的には、田淵さんは、妻・有加さんの説得で、9月7日、シーズン途中で「辞意」を表明したそうで、

(表向きの辞任)

田淵さんは、

この3年間、失敗だらけの毎日だった。野球の難しさ、人間関係の難しさ、いい勉強になった。球団に感謝している

と、語っているほか、

著書「我が道」でも、

むしろ契約年数を全うさせてくれた中内オーナーには感謝している。海外に行くといつも送ってくださる絵はがきには毎回こう書いてあった。

「ねあか、のびのび、へこたれず」

期待に応えられず申し訳なかったが、よきオーナー、よきファンに恵まれた3年間だった。

と、綴っています。

(実は、シーズン中の8月、中内正オーナー代行が元阪急の名将・上田利治さん(当時は評論家)に監督就任を要請しており、上田さんも快諾して組閣の準備に入っていたそうですが、父親の中内功オーナーを中心としたグループが西武の黄金期を築いた根本陸夫さん(当時は管理部長)の招聘(しょうへい)を密かに進めていたことから、上田ダイエーは実現しなかったのだそうです)


我が道

「田淵幸一は星野仙一をコーチとして支えることが大学時代からの夢だった!」に続く

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