ダイエーホークス監督就任1年目の1990年は最下位、2年目の1991年は5位、3年目の1992年は4位と、一つずつ順位を上げていくも、3年で監督を解任された、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、その後、TBSで解説の仕事をしていたそうですが、そんな中、阪神の監督に就任要請されていた旧友の星野仙一さんに、コーチに誘われたといいます。

「田淵幸一はダイエー監督3年目のシーズン中に解任を通告されていた!」からの続き

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阪神の監督に就任要請されていた旧友・星野仙一にコーチに誘われていた

福岡ダイエーホークスの監督を解任された後は、1993年から2001年まで、TBSの解説者を務めていた田淵さんですが、2001年12月9日、愛知県豊田市の南山CCで開かれた、旧友の星野仙一さん主催の「星野仙一と愉快な仲間たちのチャリティーゴルフ」に参加すると、

プレー前に、星野さんから、

おい、やるぞ

と、声をかけられたそうで、

田淵さんは、てっきり、ゴルフのプレーのことだと思い、

ああ、いい天気だしな

と、答えたそうですが、

星野さんには、

そのやると違うんや。シマ(阪神)のユニホームを着るぞ

と、言われたそうで、

田淵さんは、

わかった。ついていく

と、即断し、

じゃあ、オレの代理人やってくれよ。条件はすべて任せる

と、言ったのだそうです。

親友・星野仙一とは気持ちが通じ合っていた

こうして、星野さんからは、「コーチになってくれ」という言葉もなければ、金銭的な話も一切なかったそうですが、2人の気持ちは通じ合っていたそうで、

田淵さんは、

そういうもんなんだよ。オレと仙ちゃんとはね。ついて行くと決めたら、後は任せておけばいい。こまごました話なんか、オレたちには必要ないんだ

と、語っています。

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大学時代、将来、星野仙一が監督になった際にはコーチとして助けると約束していた

というのも、田淵さんは、法政大学時代から、コーチとして星野さんを支えることが夢だったというのです。

実は、法政大学の主砲だった田淵さんと、明治大学のエースだった星野さんは、大学時代、ライバル同士だったにもかかわらず、グラウンドを離れると、親友だったそうで、

試合が終わると、星野さんが、

「熊の子」に集合や!

と、声をかけ、

当時、東京・新宿のゴールデン街にあった北海道料理の店「熊の子」の2階に、田淵さん、山本浩二さん、富田勝さんの法政三羽烏や、1年後輩の江本孟紀さんらプロを目指す選手たちが集まっていたそうですが、

その店で将来のことを語り合う中、星野さんだけは、監督になったときの話をしていたそうで、それに感心した田淵さんは、その時、

お前が監督になったとき、オレがコーチで助ける

と、約束していたのだそうです。

「田淵幸一は親友のジャンボ尾崎から監督の器ではないと言われていた!」に続く

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