大学時代からコーチとして星野さんを支えることが夢だったという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、実は、ダイエーホークスの監督を退任後、親友のジャンボ尾崎(尾崎将司)さんから、面と向かって、監督の器ではないと言われたことがあり、その後、自分でも、「2番手の男」を望んでいることに気づいたといいます。

「田淵幸一は星野仙一をコーチとして支えることが大学時代からの夢だった!」からの続き

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中日で星野仙一監督が胴上げされているのを見て自身も星野を胴上げしたいと思っていた

星野仙一さんの下でコーチをするのが大学時代からの夢だったという田淵さんですが、実は、1999年9月30日、神宮球場で、星野さん率いる中日がヤクルトを制して優勝し、星野さんが胴上げされるのを、友人の一人としてスタンドで観戦していたそうで、

その時、田淵さんは、感動して涙を流しながら、

自分もあの輪の中に入り、タイガースのユニホームを着た仙ちゃんを胴上げしたい

と、思ったのだそうです。

(星野さんは1997年に他界した妻・扶沙子さんの写真をユニフォームのポケットに忍ばせていたそうです)

人間には「器」があることに気がついていた

しかし、なぜ、胴上げの主が星野さんで、田淵さん自身ではなかったのでしょうか。

田淵さんは、その理由を、

おれの中でタイガースを再建できるのは星野という男しかいない、と確信していたからだと思う。もちろん、阪神のOBとして、どうすれば低迷から後輩たちを救えるのかと考えたことはある。でも、最後に『その力がお前にあるのか?』と自問自答したとき、答えは『NO』だった

と、語っています。

(田淵さんは、かねてから、「阪神を再建できるのは星野しかいない」と星野さんを監督に推していたそうです)

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ジャンボ尾崎から言われた一言で、自身は「2番手の男」だと悟っていた

また、田淵さんは、3年間のダイエーホークスでの監督生活を終え、評論家としての活動に戻っていた頃、あるパーティーで、親友である、プロゴルファーの「ジャンボ」こと、尾崎将司さんから、

お前は監督の器じゃない

と、面と向かって言われたことがあったそうで、

その時は、「何言ってやがる」と反論したそうですが、その後も、妙に尾崎さんの言葉が頭から離れず、よくよく、子供の頃からの自分を見つめ直してみると、

法政大学時代には、キャプテンを任されるも、自分の柄じゃないと一度は断っていたほか、プロに入ってからも、ホームラン王になってからよりも、王貞治さんを追いかけている時のほうが充実していたなど、1度も1番になりたいと思ったことがなかったことに気づいたそうで、この時、田淵さんは、自分は「2番手の男」だと悟ったのだそうです。

(尾崎さんの言葉が天の声のように思えたのだそうです)

そして、

No2として大将をもり立てていく役をやりたい

と、思い始めた矢先に、星野さんからコーチの誘いがあったのだそうです。

(実はその数年前、長嶋茂雄監督の知人から、「巨人のコーチをやる気はないか?」と打診されたことがあったそうですが、ありがたい話ではあったものの、セ・リーグでは、青春時代の10年間を過ごした阪神以外考えられず、辞退していたのだそうです)

「田淵幸一の阪神コーチ時代は監督の星野仙一を立て黒子に徹していた!」に続く

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