ダイエーの監督を退任後、親友のプロゴルファー・ジャンボ尾崎さんに面と向かって「監督の器ではない」と言われたことをきっかけに、自分は「2番手の男」だと悟り、「No2として大将をもり立てていく役をやりたい」と思うようになっていた矢先、阪神の監督要請を受けていた親友の星野仙一さんからコーチに誘われたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんは、正式に阪神のコーチに就任すると、心配する周囲の声をよそに、星野さんを支えるべく、「黒子」に徹したといいます。

「田淵幸一は親友のジャンボ尾崎から監督の器ではないと言われていた!」からの続き

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星野仙一監督のもと阪神のチーフ打撃コーチに就任

星野仙一さんが正式に阪神タイガースの監督に就任すると、星野さんからコーチに誘われていた田淵さんも、背番号「88」、推定年俸1億円の1年契約で古巣・阪神のチーフ打撃コーチに就任したそうで、

(田淵さんにとって24年ぶりの阪神復帰)

2001年12月20日に行われた入団発表では、

地獄の底だろうが、どこまでもついていく。嫌と言われても。星野監督は阪神に欠けている闘魂を注入してくれる人。勝てばうれしい。負ければ悔しい。感情が豊かでファンと一緒に喜べる人だ

と、コメントしています。

(田淵さんは心の底から喜んだそうです)


(左から)野崎球団社長、田淵さん、星野仙一さん(2001年12月20日の入団発表時)

周囲は「ミスタータイガース」の田淵が阪神の監督をやるべきだと思っていた

ただ、田淵さんのような専任コーチ経験のない監督経験者が、監督退任後にヘッドコーチ以外のコーチに就いた例は、中西太さん、杉下茂さんなど兼任監督だったケースが大半で、田淵さんのケースは珍しく、

しかも、かつて「ミスタータイガース」と呼ばれた田淵さんが、阪神とは縁もゆかりもない中日の監督だった星野さんの下でコーチを務めることに、周囲も心配したそうで、

産経新聞の担当記者だった田所龍一さんは、田淵さんがダイエーホークスの監督だった頃から、いつかは阪神の監督に、との夢を思い描いていたことから、

田淵さんの阪神入団発表の数日前、

なぜ、コーチを受けたんです。

これが阪神以外のチームならまだ納得もできます。でも阪神では、あなたが監督で星野さんがコーチじゃないんですか。あなたはミスタータイガースなんですよ

と、言ったそうですが、

田淵さんには、

そう怒るな

と、なだめられたそうで、

思わず、田所さんが、

悔しくないんですか!

と、声を荒らげると、

田淵さんは、少しの沈黙の後、

悔しくない。これがオレの夢だったから

と、優しく微笑みながら言ったそうです。

長男の裕章からも心配されていたが・・・

また、田淵さんは、入団発表の前日、当時、青山学院大学1年生だった長男の裕章(ゆうしょう)さんからも、

お父さんが阪神へ行っても、目立つのは星野さんだけ。背番号77だけだよ。お父さんのことなんか誰も見向きもしてくれないよ。それでもいいの?

と、言われたそうですが、

それでいいんだ。いや、そうでなくちゃいけないんだ

と、答えたのだそうです。

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阪神のコーチに就任した後も徹底的に星野仙一を立てていた

また、星野さんが、阪神の久万俊二郎オーナーに、

田淵をコーチで呼びたい

と、言った時にも、

久万オーナーには、

チーム内に監督が2人できるんじゃないか

と、難色を示されたといいますが、

(2人は大学時代ライバル同士で、プロに入ってからも、田淵さんは阪神で「ミスタータイガース」、星野さんは中日で「ミスタードラゴンズ」と呼ばれていたため、誰がどう見ても2人は対等だったそうです)

実際、田淵さんがコーチに就任すると、田淵さんは、徹底的に「黒子」に徹し、星野さんと話す時は必ず直立不動の姿勢、呼ぶときは「監督」、記者たちに話をする時は、「ウチの大将」と言ったそうで、

星野さんからは、

いいよ、そこまでしなくても。ふたりっきりのときは仙ちゃんと呼んでも

と、言われたそうですが、

田淵さんは、

いや、ケジメが大切なんだ

と、押し通したのだそうです。

「田淵幸一の阪神コーチ時代は星野仙一監督の「怒鳴られ役」も担っていた!」に続く

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