1949年、明治大学から中日ドラゴンズに入団すると、翌年の1950年から6年連続で20勝以上を挙げ、初の日本一となった1954年には、32勝12敗、防御率1.39という成績で、最多勝、最優秀防御率、MVP、沢村賞と数々のタイトルを獲得するなど、プロ野球生活たった11年で、通算215勝123敗という成績を残した、杉下茂(すぎした しげる)さん。今回は、そんな杉下さんの少年時代をご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?
杉下さんは、1925年9月17日生まれ、
東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)の出身、
身長182センチ、
体重71キロ、
学歴は、
明正小学校
⇒錦華小学校(尋常小学校)転校卒業
⇒一ツ橋高等小学校
⇒旧制帝京商業学校(現・帝京大学中学校・高等学校)
⇒明治大学旧制専門部
ちなみに、杉下さんは、尋常小学校を卒業した後、一ツ橋高等小学校に進学しているのですが、一ツ橋高等小学校から帝京商業学校へ進学した先輩の誘いを受け、卒業を待たずに、1年後、旧制中学校(5年制)の帝京商業学校へ転校しています。
(高等小学校(2年制)に進むか、旧制中学校(5年制)に進むか選択できたそうです)
小学校低学年の頃から兄とキャッチボールをしていた
杉下さんは、2人兄弟の次男として誕生すると、2~3歳の頃、一家でお父さんの職場がある中央区新川へ引っ越したそうですが、
(お父さんの和一(わいち)さんが50歳頃の子供だそうです)
その際、お父さんがグラブとミットを買ってくれたそうで、小学校低学年の頃から、3歳年上の兄・安佑(やすすけ)さんとキャッチボールを始めたそうです。
(当初はお兄さんが投手、杉下さんが捕手だったそうで、杉下さんは、本当は投手をやりたかったそうですが、弟だから仕方ないと、諦めていたのだそうです)
幼少期~少年時代は肺を患うも野球が大好きだった
そんな杉下さんは、幼い頃から肺を患い、体が弱かったことから、「青びょうたん」と呼ばれていたそうですが、とにかく野球が好きで、よく友達を誘っては、軍の工場跡地の原っぱ(現在は東京ドームがある辺り)で、草野球をするほか、道路でキャッチボールをするなど、とても、のんびりと野球をやっていたそうです。
(当時は道路も車が少なかったそうです)
父親は病弱でラジオで東京六大学野球の試合を聞きながらスコアブックをつけていた
ちなみに、杉下さんのお父さんは、杉下さんが物心ついた時から、身体を壊して寝込んでいることが多かったそうですが、野球が好きで、床に伏しながらも、東京六大学野球の試合をラジオで聞きながら、スコアブックを付けていたそうです。
また、お母さんはというと、特に野球が好きというわけではなかったそうですが、日曜日にはお弁当を持って、神宮球場に連れて行ってくれたそうです。
「杉下茂は中1のとき小学校の軟式野球大会に出場し優勝していた!」に続く