帝京商業時代には、右肩を痛め、投手を断念せざるを得なくなっていたにもかかわらず、戦争で手榴弾を投げているうちに、肩の痛みがなくなったという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、終戦後、中国から帰国して、初の体外試合では、いきなり、ノーヒットノーランを達成したといいます。
「杉下茂は手榴弾の投げ方を野球のピッチングに活かしていた!」からの続き
帰国すると東京大空襲で焼け野原となった東京で奇跡的に自宅と母親は無事だった
終戦した後も、帰国する目処が立たず、中国の捕虜収容所で過ごしていたという杉下さんですが、年が明けた1946年1月3日、ようやく、日本への引き揚げが始まると、上海の飯田桟橋から、日本へ行くフィリピン軍の船に乗り込み、4、5日後に長崎・佐世保港に上陸し、汽車で東京に戻ったそうです。
(佐世保へ引き揚げる際、中隊長から(黒檀の机の脚を切って手作りした)箸と箸箱を餞別代わりにもらったそうで、現在も愛用しているそうです)
そして、朝早く、東京・御茶ノ水駅で降りると、家を目指し、歩いて帰ったそうですが、東京大空襲を受けた街は、一面、焼け野原となっていたそうで、
(靖国神社まで見渡せたそうです)
ところどころしか、家が残っていなかったそうですが、奇跡的に神田の実家もお母さんも無事だったのだそうです。
(杉下さんが出征した後、お母さんは東京と新潟の実家を行ったり来たりしていたそうです)
母親と涙の再会を果たす
ちなみに、お母さんは、この日、突然目の前に現れた息子に、
帰ってこられたのかい。兄さんは戦死したよ
と、涙を流しながら喜んでくれたそうで、
杉下さんは、
母と再会できたときの気持ちは、一生忘れることはないと思う
と、語っています。
(杉下さんも、岐阜の叔母さんからの手紙で、お兄さんが沖縄戦で米艦に突撃して戦死したことを知っていたそうです)
復員後は「いすゞ自動車硬式野球部」でノーヒットノーランを達成していた
さておき、杉下さんは、その後、中国出征前に勤めていた川崎市のヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に戻ると、新たに「いすゞ自動車硬式野球部」が結成されたそうですが、投手がいなかったことから、投手をやることに。
すると、初の対外試合であるコロムビア戦では、中国の収容所のとき以上の球を投げることができたそうで、いきなり、ノーヒットノーランを達成したのだそうです。
(その試合の球審は奇しくも、高校時代の監督・天知俊一さんだったそうですが、帝京商業学校時代に右肘を痛め、山なりのボールしか投げられなかった杉下さんが、強肩速球投手になっているのを見て驚いていたそうです)
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