巨人に入団した1954年は、ルーキーながら、遊撃手のレギュラーとして、打率3割1分4厘、15本塁打、67打点を記録して新人王を獲得した、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんですが、守備がなかなか上達せず、悩む日々が続く中、1958年秋、日米野球で、アメリカ・大リーグのドン・ブラッシンゲーム(ブレイザー)選手のプレーを見てひらめくものがあったといいます。
「広岡達朗は川上哲治の守備を下手クソと言っていた!」からの続き
守備が上達せず川上哲治からは聞こえるように嫌味を言われていた
広岡さんが守備が上達せず、悩み続ける中、川上さんからの嫌味は相変わらず続いたそうで、大投手の別所毅彦さんが投げている時、広岡さんが失策すると、
川上さんは、ベンチで監督に、
こんな遊撃手だと勝てない。代えてくれ
と、広岡さんに聞こえるように言ったこともあったそうです。
ただ、広岡さんは、誰かに泣きつくこともせず、自分が悪いと反省し、この世界で生き残るにはうまくなるしかない、と思っていたそうです。
アメリカ・大リーグのドン・ブラッシンゲーム(ブレイザー)のプレーを見て守備を開眼していた
すると、1958年秋、広岡さんは、アメリカ・大リーグのカージナルスを招いた日米野球で、ドン・ブラッシンゲームという二塁手のプレーを見たことで開眼したといいます。
(オフの試合だったにもかかわらず、ブラッシンゲーム選手はほかの選手とは違い、手を抜かずに一生懸命プレーしていたのだそうです)
というのも、ブラッシンゲーム選手は、準備が早く、球が来るずっと前に捕球姿勢を整え、丁寧に処理していたそうで、広岡さんは、そんなブラッシンゲーム選手を見て、「これだ」と思ったのだそうです。
ブラッシンゲーム(ブレイザー)の真似をして早く準備をするように心がけるように
そこで、広岡さんは、さっそく、ブラッシンゲーム選手の真似をしてみると、球がよく見えて、焦らないで済み、苦手だった送球も一連の流れでできるようになったそうで、これで手応えをつかみ、以降、常に、早く準備をすることに気を配るようにしたそうで、
広岡さんは、
わたしは転がってきたボールを捕ればそれでいいと思っていた。でもブレイザーの堅実なプレーを見て、ハッとします。構え遅れをしていたわたしと違って、どんな打球にも対応するのは準備が必要だということに気づいたのです
と、語っています。
(ブラッシンゲーム選手は、後に「ブレイザー」の登録名で、南海ホークスや阪神タイガースでプレーし、監督も務めているのですが、野村克也さんの野球観にも影響を与えたといいます)
合気道の教えも野球に役立てていた
ちなみに、広岡さんは、合気道の藤平光一さんにも師事したそうですが、リラックスしている姿こそ、その後の動きにスピードがついてくることから、リラックスをするにはどうすればいいかを学んだほか、
へその下の臍下(せいか)の一点に心を静めて統一することで、心が身体を動かすことができるなど、合気道の数々の教えも、野球に役に立てたのだそうです。
「広岡達朗は川上哲治監督にミーティングで恥をかかせていた!」に続く