1969年、後藤次男さんが監督辞任後、戸沢一隆球団社長から、後輩である村山実さんが次期監督になることを告げられたうえ、村山さんに協力して欲しいと言われ、心穏やかではいられなかったという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、さらには、その後、一転、引退を迫られたといいます。
「吉田義男は後輩の村山実が次期監督に就任し心穏やかではなかった!」からの続き
次期監督の村山実に協力してほしいと言われ、「二流の二塁手」として頑張ろうと決めるも・・・
村山実さんが阪神タイガースの次期監督に決まり、戸沢一隆球団社長に、「協力してやってもらいたい」と言われた吉田さんですが、吉田さんは、それを、「現役を続けてチームに貢献しろ」という意味だと解釈していたそうですが、
1969年、17年目のシーズンは、77試合の出場で打率も1割9分4厘と2割を切ったうえ、36歳で足腰も肩も衰えていたそうで、そんな自分が選手生活を続けるとなると、中途半端な状態を断ち、「二流でもいいからできるだけのことをやろう」という気持ちの割り切りが必要だったそうです。
そして、さんざん考えた結果、それが阪神のためだというなら、「二流の二塁手」として、もう少し頑張ってみようと、年末の契約更新の際、球団にその旨伝えたそうですが・・・
戸沢一隆球団社長からは一転引退して欲しいと迫られていた
球団には、(村山さんとチーム作りの構想を話し合った末の方向転換だったのか考えが変わっていたそうで)
村山君にとって吉田君は先輩だ。どちらが監督か、マスコミにいろいろと騒がれた経緯もある。君が選手として残ると、お互いになにかとやりづらいのではないか。ここは吉田君、引退してもらいたいと思うのだが・・・
と、言われたそうで、
吉田さんは、それならそうと、最初から言ってくれれば悩まなくて済んだのにと、拍子抜けしたそうで、
はい、よくわかりました
と、即答して話し合いは終わり、
この年(1969年)現役引退し、コーチも退任したのだそうです。
(戸沢一隆球団社長からは、いずれ帰ってこいと言われなかったそうですが、400万円が支給され、慰労金でも退職金でもなかったそうですが、ありがたく受け取ったのだそうです)
遊撃手の後任・藤田平にアドバイスの手紙を送るも返事はなかった
ちなみに、吉田さんは、退団が決まった後、遊撃手の後任である藤田平さんに、
遊撃は足が命。しっかり走って足を鍛えろ
と、(純粋に、遊撃手の後継者として成功してほしいとの気持ちから)手紙を出したそうですが、
クールな藤田さんからは、返事はなかったそうです。