現役引退後は、テレビで解説の仕事をしながら熱心にメジャー視察を繰り返していたという、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、そんな中、1974年10月、マスコミの人物から阪神タイガースの監督のオファーを受けたといいます。
「吉田義男は現役引退後5年間毎年渡米してメジャーの野球を勉強していた!」からの続き
阪神は残り2試合を「1分け1敗」以上で優勝だったにもかかわらず優勝を逃していた
阪神タイガースは、1972年に村山実さんが監督を退任し、1973年からは金田正泰さんが監督に就任していたのですが、このシーズン、阪神は、残り2試合を「1分け1敗」以上で乗り切れば優勝、というところまで来ていたそうで、
その1試合目の中日戦があった日、吉田さんが、飛行機で東京から大阪へ帰る際、羽田空港で確認した際には、田淵幸一選手の犠牲フライで1点リードしていたそうで、
吉田さんは、機内で、
ようやく優勝できそうやな。昭和39年以来だから、9年ぶりや。長かったなあ
と、感慨に浸っていたそうですが、
伊丹空港に到着すると、逆転されているのを知り、「エーッ」と驚いているうちに、そのまま、2対4で負けてしまったそうです。
それでも、次の巨人戦を引き分けとすれば、まだ優勝出来たところ、阪神は0対9で大敗したそうで、阪神の優勝を信じていたファンの怒りは頂点に達し、暴徒と化してグラウンドになだれ込み、両軍ベンチや放送席にまで乱入して暴れまわったそうです。
(この試合で巨人は優勝し、9連覇を達成しました)
阪神タイガースからの監督オファーはマスコミの人物からだった
そんな阪神は、翌年の1974年には4位に終わり、金田正泰監督が退任するほか、23年間務めた野田誠三オーナーと18年間務めた戸沢球団社長もそろって退陣するなど、人事が一新されたそうですが、
そんな中、テレビで解説の仕事をしながら、熱心にメジャー視察を繰り返す生活を送っていた吉田さんのもとに監督のオファーがあったそうで、
その日、吉田さんは、仙台で行われたパ・リーグのプレーオフ、ロッテ対阪急戦の解説をしていたそうですが、ロッテのストレート勝ちに終わり、日程が空いたため、テレビ局のスタッフと蔵王へ観光に出かけていたところ、阪神球団から、すぐに帰って西宮市の小津正次郎さん(後の阪神球団社長)の家へ来いという連絡があったそうで、
吉田さんは、その時のことを、著書「牛若丸の履歴書」で、
阪神という球団は変わっている。私に監督就任を打診してきたのは、オーナーでも社長でも代表でもなく、マスコミのある人物だった。フロントにもマスコミにも派閥があって、その勢力争いが監督選びにも影響することを端的に証明する事実だろう。
そういう経緯で監督になると、なってからが大変やりづらい。対立するフロントやマスコミの勢力が、私の失脚を待ち構えているのだから、特にマスコミは、何かあれば叩こうとしてくる。それが歴代の阪神監督にとって、最大の悩みだったのではなかろうか。
と、綴っています。
(吉田さんは、5年前の1969年、村山実さんとの監督争いに負けており、もう監督の目はないとみられていた中での監督要請だったそうです)
阪神タイガース監督第一期の背番号は尊敬するヤンキースの監督・ビリー・マーチンの「1」をつけていた
こうして、1974年10月、阪神の監督に就任した吉田さんは、背番号を、尊敬するヤンキースの監督、ビリー・マーチンと同じ「1」にしているのですが、
吉田さんは、その理由について、
どんな時にも自己を貫く彼のスタイルに憧れ、私もそのような監督でありたい、という願いを込めたのだ。
と、語っています。
「吉田義男は阪神監督第1期では江夏豊の残留を球団に申し入れていた!」に続く