フランスチームを指導する中、阪神タイガースから3度目の監督要請を受け、一旦は辞退するも、フランスチームのひたむきに練習に打ち込む姿を見て、この「初心」を阪神ナインに与えることが自身の役割かもしれないと、監督を引き受けたという、吉田義男(よしだ よしお)さんは、淀み切った阪神を「できるだけいい形で次の監督につなぐ」ため、春の安芸キャンプでは、フランス・ナショナルチームの選手3人を参加させるほか、期待の新庄剛志選手に対しては、のびのびとした環境を与えることで、野球に集中させようとしたといいます。
「吉田義男が3度目の阪神監督オファーを引き受けた理由とは?」からの続き
1997年3度目の監督就任1年目は5位
吉田さんは、1996年、阪神タイガースの3度目の監督を引き受けると、前年オフのドラフト会議で、後にチームの主軸となる、今岡誠選手、関本健太郎選手、濱中治選手3名を獲得するのですが、一方、即戦力の補強は思うようにいかず、
FAでは、清原和博選手には、「タテジマをヨコジマにしてでも」と熱意を示すも断られるほか、3億円以上の年俸で獲得した、レッドソックスを退団した大物外国人、マイク・グリーンウェル選手は、5月3日に来日初出場し、先制打に適時三塁打と派手なデビューを飾るも、その後、自打球を当てて右足首を骨折し、7試合6安打5打点の成績を残しただけで、「神のお告げ」だと言って、5月11日を最後に退団・帰国してしまったそうで、
(これには、吉田さんも「竜巻のようでしたな」と笑い話にするしかなかったそうです)
3度目の監督就任1年目の1997年は、5位に終わってしまいます。
(それでも、3年連続最下位は免れ、同年オフには、中日ドラゴンズとの大型トレードで、久慈照嘉選手と関川浩一選手を放出し、大豊泰昭選手と矢野輝弘選手を獲得したそうです)
阪神を活性化させるため仏ナショナルチームの選手を練習に参加させていた
実は、吉田さんは、今回の役割は「できるだけいい形で次の監督につなぐこと」だと考え、まず何よりも、暗く沈みきっていたチームのムードを変えたいと思い、春の安芸キャンプに、自身が5年間監督を務めていた、フランス・ナショナルチームの選手3人を参加させたそうです。
すると、フランスの選手たちの、感激して必死で練習についていこうとする姿が、阪神の選手たちを触発し、吉田さんの目論見通り、キャンプに活気が出たそうで、
特に、故障で苦しんでいた中込伸選手はフランス選手に負けない意気込みを見せ、猛練習に励むほか、グラブをプレゼントするなど、フランス選手たちの面倒を一生懸命見てくれたのだそうです。
新庄剛志にはチームを活性化する「暴れん坊」的存在になることを期待していた
ちなみに、新庄剛志選手も、このキャンプをきっかけに持ち前の明るさが戻ってきたそうですが、新庄選手は次期「ミスター・タイガース」と騒がれながらも安定した力を出しきれずにいたそうで、
(新庄選手は、1995年には、藤田平前監督と衝突した末に「引退宣言」をしていたそうで、吉田さんは、新庄選手には、センスの良さを感じながらも、野球に集中できずにいることも感じたそうです)
吉田さんは、新庄選手が輝きを取り戻すことが、本人にとってもチームにとっても大切なことだと考え、また、新庄選手にはチームを活性化する「暴れん坊」的な存在になってほしいとも期待していたそうです。
新庄剛志には自由奔放なスタイルを尊重して野球に集中させたいと考えていた
そこで、吉田さんは、新庄選手のように奔放なタイプには、あまり細かく制約せず、むしろ、のびのびとした環境を与えることで野球に集中させた方が良いと思ったそうで、
髪を茶色や金色に染めるくらいで満足したらアカン。モヒカンにするとか、ピアスをつけるとか、もっといろいろやったらええんや
と、逆に挑発し、
さらには、どんなにスランプが続いてもスタメンから外さず、レギュラーとして使い続けたのだそうです。
「吉田義男は3度目の阪神監督を就任2年目で辞任していた!」に続く