1935年11月、法政大学に進学予定も、お父さんとお兄さんに強引に勧められ、設立されたばかりの大阪(阪神)タイガースに入団すると、入団1年目から本塁打王に輝くほか、2年目にはノーヒットノーランを達成するなどの活躍をした、藤村富美男(ふじむら ふみお)さんは、その後、1948年からは、「物干し竿」と呼ばれる通常よりも長いバットを使用してホームランを量産し、阪神の「ダイナマイト打線」を象徴する存在となります。
「藤村富美男は大阪(阪神)タイガースから熱心にスカウトされていた!」からの続き
再び応召されていた
藤村さんは、1945年3月末頃、太平洋戦争のため、広島の連隊に再び応召され、本土決戦に備え、塹壕堀りなどに従事していたそうですが、
同年4月には、在籍していた連隊が福岡県折尾(現在の北九州市八幡西区)に移動し、今度は山の中で軍用犬の教育をしたそうです。
(そのため、広島の原爆投下は奇跡的に免れたのだそうです)
そして、8月15日、終戦を迎えると、広島県・呉の実家に戻ったそうですが、今度は進駐軍の雑役に駆り出され、人間魚雷「回天」の解体作業に就いていたそうですが、同年11月、球団から「スグカエレ」と電報が届いたそうで、プロ野球に復帰したのだそうです。(30歳)
(電報を受け取った時は、再び野球をやれる喜びで体が震えたそうです)
復員後、打者では打率3割2分3厘、投手でも13勝2敗と二刀流の活躍
そんな藤村さんは、1945年11月23日、戦後初のプロ野球公式戦、明治神宮野球場の東西対抗戦で、西軍として3番・先発で出場すると、5回表、東軍の白木義一郎投手から、(戦後のプロ野球初の)センターオーバーのランニングホームランを放ち、
翌1946年にプロ野球が再開されると、大阪(阪神)タイガースのプレイングマネージャー(選手兼任監督)で5番打者として打率3割2分3厘を記録するほか、戦後の投手不足のため、投手としても登板すると、13勝2敗(リリーフだけなら8勝0敗)の活躍。
(藤村さんは、試合の後半、投手が四球を連発したりすると、じっとしていられなくなり、負け試合でもウォーミングアップもろくにせず、サードからリリーフ登板したのだそうです)
そして、1947年には、不動の4番打者に定着すると、36二塁打で、前年の自身の記録(31)を更新するほか、打点71(打点王)、(同年設立された)三塁手でベストナインとなる活躍で、この年の優勝に貢献したのでした。
(以後6年連続で三塁手でベストナイン受賞)
「物干し竿」と呼ばれる長尺バットを使用しホームランを量産していた
また、藤村さんは、1948年には、赤バットの川上哲治選手、青バットの大下弘選手という、関東のスターに対抗すべく、(ゴルフクラブからヒントを得て)通常のバットよりも長い38インチ(96センチ)近くもあるバット(物干し竿)をあつらえると、
そのバットを目一杯長く持って振り回し、よく飛ぶラビットボールを打ちまくって本塁打を量産したそうで、史上最強と謳われた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となったのでした。
(プロ野球は1948年から1950年にかけて、「ラビットボール」という反発係数の高いボールを導入し、いきなり、極端な打高投低時代に突入したそうで、藤村さんは、このラビットボールのメリットを最大限に活かしてホームランを量産したのだそうです)
天性のショーマンシップを発揮し観客を沸かせた
ちなみに、藤村さんは、天性のショーマンシップを発揮し、三塁守備ではダンプカーのように打球に突進し、派手な動きで送球するほか、空振りをして尻もちをついてみせたり、ホームランを打てばバンザイをして、観客席に帽子を振りながらホームインしたりしたそうで、派手なパフォーマンスで観客を沸かせたのだそうです。
「藤村富美男は主力選手でひとり大阪(阪神)タイガースに残留していた!」に続く