1977年、近鉄バファローズに移籍すると、同年10月には史上2人目の通算350勝を達成するも、それから僅か11日後に現役引退を発表した、米田哲也(よねだ てつや)さんは、その後、野球解説者や野球評論家として活動すると、1985年には、西本幸雄さんに推薦され、吉田義男さんが監督に就任したばかりの阪神タイガースに一軍投手コーチとして就任します。
「米田哲也の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」からの続き
現役引退後は野球解説者や野球評論家として活動
1977年をもって現役を引退した米田さんは、その後、西宮市でスナック「セナ350」を経営しつつ、1978~1981年には関西テレビ、1982~1984年にはフジテレビで解説者を務め、1979~1984年には日刊スポーツで野球評論家も務めたそうです。
西本幸雄に推薦され阪神タイガースの一軍投手コーチに就任
そんな中、1985年には、阪急ブレーブスと近鉄バファローズ時代の監督だった西本幸雄さんから推薦され、吉田義男さんが監督に就任したばかりの阪神タイガースの一軍投手コーチに就任したそうで、
(西本さんは、吉田さんの前に阪神から監督要請を受けていたそうですが、高齢を理由に固辞したそうで、「甲子園のグラウンドでつまずいたら笑われるやろ」と話していたそうです)
米田さんは、
西本さんから電話で『(吉田を)助けてやってくれ』と言われたんだ。阪神の投手力は最低と思っていたから、逆にやりがいがあった。
吉田さんには『どうせ(130試合のうち)60敗はするんですから、負けるときは自信をもって負けてほしい』と、おれの考えをいった。それと5回以降はこちらに任せてくださいともな(※勝ちにつながらないと判断した場合はロスのない投手起用で負け試合を作るという意味)
と、語っています。
(阪神の監督に就いた吉田さんは、第1期監督時代(1975~77年)の経験から「一番難しいと思ったのは投手起用、代え時だった」と継投の難しさを痛感していたそうです)
吉田義男監督はキャンプでの規則を厳しくしていた
こうして始まった吉田タイガースは、一軍投手コーチの米田さんのほか、ヘッドコーチに土井淳さん、打撃コーチに並木輝男さん、守備走塁コーチに一枝修平さんを配し、スタートすると、
吉田監督は、2月、安芸キャンプの選手宿舎を、これまでの安芸市内から、香南市の人里離れた海岸に建つ「手結山観光ホテル」(高知市内や安芸市内に行くのにタクシーでも30分かかったそうです)へ変更したうえ、以下の通り、3つのキャンプ規則を発表したのだそうです。
- 休日前の外泊は原則認めない(門限は午前0時)
- 宿舎での飲酒は食事中のみで、部屋での飲酒は厳禁
- 休日のゴルフは禁止
(土井さんは、「休日は体を休ませ、明日への力を補充させるために費やすべきである」と語っていたそうです)
コーチの米田哲也が規則に反対したことで選手の不満は爆発せずに済んだ?
ちなみに、この規則を決めるコーチ会議で、「(ほかの選手が妬むという理由から)コーチは個人的に選手を食事に誘わない方がよい」という意見が出されたそうですが、
米田さんだけが、
外泊してもええやないですか。それにボクは選手を連れて食事に行きますよ。お酒を飲んでも、それで翌日の練習に〝よし、やるぞ〟って気が起こればいい。
厳しくするのはそれができなかったときで十分。そのときこそ、厳しくプロの心構えをたたき込んでやればええんとちゃいますか
と、反対。
結局、米田さんの意見は通らなかったそうですが、首脳陣の中で一人でも異論を唱えたコーチがいたということで、選手の間からは少しも怒りや憤りの声は聞こえてこず、不満が爆発しなくて済んだのだそうです。
「米田哲也は投手コーチとして阪神のリーグ優勝&日本一に貢献していた!」に続く
阪神コーチ時代の米田さん(左)と吉田義男監督(右)。