1956年に阪急ブレーブスに入団すると、その無尽蔵とも思われたスタミナから、「人間機関車」「タフマン」と呼ばれ、NPB歴代2位の通算350勝を達成した、米田哲也(よねだ てつや)さんは、登板試合数949を記録しており、中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手に更新されるまで歴代最多だったのですが、今回は、10年目くらいからその投球を支えた「ヨネボール」についてご紹介します。
「米田哲也は投手コーチとして阪神のリーグ優勝&日本一に貢献していた!」からの続き
阪神の投手コーチ辞任後はオリックスや近鉄で投手コーチも
1986年に阪神タイガースのコーチを辞任した米田さんは、その後、1987から1992年途中まで、関西テレビ、フジテレビ、ラジオ大阪で解説の仕事をしつつ、日刊スポーツの野球評論家も務めると、
1992年途中から1993年まで、オリックスの一軍投手コーチを務め、1994年には、日刊スポーツの野球評論家に復帰。そして、1995年には、近鉄一軍投手コーチ、1996~1997年には再び日刊スポーツの野球評論家を務めるほか、山根俊英さんらと共に鳥取県内で少年野球教室を開いたこともあったそうです。
登板試合数949は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手に次いでNPB2位
そんな米田さんは、入団1年目の1956年から1977年の引退までで登板試合数949を記録し、歴代最多記録を保持していたのですが、
2017年8月4日、中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手が自身の記録949に並んだ際には、
記録を抜くかもと知ってから、岩瀬君の投球には注目していた。全盛期の球の切れはないが、40歳を超えても通用するのは、低めに投げられる制球力があるからだ。
949試合も投げるにはまず、けがに強いこと。あとは練習のたまもの。自己管理し、ライバルが休んでいる間にどれだけ練習したか。それは昔も今も変わらない。
あえて言わせてもらうと、私は先発完投型。彼とはイニング数が全然違う(米田さんは5130回、岩瀬さんは947回)。だから記録に並ばれてどう思うかと聞かれても、なんとも思わない。比較のしようがない。私が今、リリーバーをやっていたら、年間100試合は投げていただろうね。
今は先発、リリーフと分業制。彼は時代の流れに乗って、自分の特長を生かすことができた。運もあったということかな。だからこそ、もっと上を目指してがんばれと言いたい。これから何十年、誰もがもう抜けないと思うような記録をね。
私はけがをして、39歳で引退した。岩瀬君は昨年までの2年間は、けがなどでほとんど投げていない。年齢的に「肩たたき」されてもおかしくなかったが、球団はそうしなかった。体力は衰えても左肩はまだ元気なんだろ?
ならば球団への恩返しのため、応援してくれるファンのためにも、1000試合登板を。それが彼が今後やるべきこと。目標にしてほしい。
と、激励のメッセージを寄せています。
(その後、岩瀬投手は、翌2018年シーズン限りで現役引退しているのですが、米田さんを抜き、NPB歴代1位の1002登板を記録しています)
「ヨネボール」とは?
ところで、米田さんは、快速球と卓越した制球力が持ち味だったそうですが、プロ10年目くらいからは、「ヨネボール」と呼ばれる、フォークボールを駆使するようになったそうで、
(「ヨネボール」は、フォークのような軌道からやや横に変化したそうです)
米田さんは、
フォークボールはプロで10年ぐらいたってから投げ始めた。僕は10年で180勝以上したんじゃないかな。でも、何か一つ覚えたろと思って。そうしなきゃ長く続けられないと考えてね。
投げ方は教えてもらってない。昔はみんな自分で盗むんです。フォークを放るような人は、そんなにいなかった。村田兆治ぐらいじゃないか。僕は指が短いから球が挟めないんですよ。
ちょっと指を開き加減で放るとか、そうやない。フォークボールというのは挟んで投げるもんやという時代ですからね。僕は指の間から抜くんです。球が手首の後ろから来るような感覚なんです。
と、語っています。
(ロッテの村田兆治投手は、足を高く上げ、右腕を豪快に振り下ろす「マサカリ投法」が持ち味だったのですが、阪急との試合の時、ダグアウトでボールを握って鍛錬する米田さんを見て、フォークボールの握りや投げ方を盗み取ったといいます)
「ヨネボール」を習得するのに5年かかっていた
ちなみに、この「ヨネボール」、投げられるようになるまで5年かかったそうですが、
((練習用の)重たい硬式球を常に持ち歩き、家にいる時は、指に挟んで遊んだり、お風呂の時には、指の間に入れて湯の中につけたりしていたそうです)
威力は絶大だったそうで、
フォークはいつでもストライクを放れた。フルカウントから何球でも。そこまで練習しなきゃいかんわ。1球を覚えるのは大変やで。
絶対にワンバウンドしない。フルカウントからでも自信を持って投げられる
と、語っています。
(米田さんは、この「ヨネボール」を習得後、1966年、25勝で最多勝に輝いています)
さて、いかがでしたでしょうか。
米田哲也さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 愛称「ガソリンタンク」の由来はお酒をよく飲むからだった
- 終戦後にもかかわらず少年時代は食べるものに苦労せず育っていた
- 小学校低学年の時に往復10キロの砂浜を走り込んでいた
- 高校1年生にして、カーブ、シュート、スライダーを習得していた
- 回転軸の真っ直ぐな速球を投げていた
- 渡辺省三と金田正一が投げ合うのを見て自分もプロでやっていけるのではと思っていた
- 阪急ブレーブスと契約するも・・・
- 後援者に説得されて大阪(阪神)タイガースとも契約
- 二重契約のなか阪神の自主トレに参加していた
- 井上登コミッショナーの裁定により阪急に入団
- 実は米田自身がエースナンバーの背番号18を用意してくれた阪急を選んでいた
- 阪急に入団するとすぐに西村正夫監督や井野川利春投手コーチに絶賛されていた
- 打撃も凄まじく打者転向を勧められていた
- 初めて西宮球場を訪れた際にはその立派さに驚いていた
- 19年連続で2桁勝利し僅か11年で200勝を達成していた
- 初登板&初先発は無失点も「ルーキーが勝ち星はあかん」と勝利投手寸前の4回2/3で交代させられていた
- プロ4打席目で満塁ホームランを放ち「満塁弾の最短記録」となっていた
- 読売系のスポーツ新聞によりトレードが報じられる
- 契約更改交渉の席で10年選手ボーナスの金額を巡って阪急球団と揉めていた
- 阪急・岡野祐球団社長はトレードをきっぱり否定も米田自身は揺れていた
- 阪急・岡野祐球団社長は米田哲也のトレードを再考すると答えていた
- 「米田を出すならオレも辞める」と言っていた阪急・西本幸雄監督も微妙な言い回しに変わっていた
- 阪急・小林米三オーナーが米田哲也のトレードをきっぱり否定
- 1971年には通算300勝を達成
- 20年目のシーズンには出場機会を求めて移籍を希望
- 阪急球団は来季よりコーチとして残留を希望も最終的にはトレードを了承
- 1975年シーズン途中に阪神タイガースに移籍
- 阪神ファンには熱狂を持って迎えられていた
- 阪神タイガースは皆川睦雄投手コーチへの反感からわずか1年半でを退団
- 近鉄バファローズ移籍後に通算350勝を達成するも・・・
- 350勝から11日後に引退した理由とは?
- 病気さえなければ400勝できていた?
- プロ野球選手(現役)時代の投手成績
- タイトルは最多勝利1回、最多奪三振1回、最優秀防御率1回
- シーズン最多完封勝利ほか記録多数
- 野球殿堂競技者表彰、MVPなどの表彰も
- 背番号
- 現役引退後は野球解説者や野球評論家として活動
- 西本幸雄に推薦され阪神タイガースの一軍投手コーチに就任
- 吉田義男監督はキャンプでの規則を厳しくしていた
- コーチの米田哲也が規則に反対したことで選手の不満は爆発せずに済んだ?
- 右肩を壊していた中田良弘投手を復活させていた
- 中西清起投手をストッパーに推薦して阪神の球団史上初の日本一に貢献
- 吉田義男監督と反りが合わず阪神を退団
- 阪神の投手コーチ辞任後はオリックスや近鉄で投手コーチも
- 登板試合数949は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手に次いでNPB2位
- 「ヨネボール」とは?
- 「ヨネボール」を習得するのに5年かかっていた
について、まとめてみました。
同じく、球界の草創期から活躍した、関根潤三さん、豊田泰光さんとの対談では、
今の選手は文句から始まりますしね。ピッチングコーチをしていても、こうやれというと「肩を壊したら補償してくれますか」とか平気でいいよる。アホか、投げられんようになったら家業継いだらええ。それがプロちゃうんか、と。
(今の若い選手はすぐに「痛い」ということについて)甘いんですわ。よっぽどじゃない限り、僕らは痛いなんて口に出せませんでしたよ。投げられる痛さと、投げられない痛さを身体で覚えていた。痛いといって休んだら、あっという間にクビですからね。
と、今の若い選手に苦言を呈していた米田さんですが、
これを「老害」と一蹴せずに、肘肩を痛めず無尽蔵のスタミナでNPB歴代2位の通算350勝を記録した米田さんの投球フォーム(身体の使い方)を分析すれば、現在の野球でも大いに参考になるかもしれません。
「米田哲也は小学校低学年の時に往復10キロの砂浜を走り込んでいた!」