1935年、14歳の時、大日本野球連盟名古屋協会(⇒名古屋軍⇒中日ドラゴンズ)に養成選手として入団すると、投手としては、1942年にノーヒットノーランを達成するほか、1947年までの通算9年間で60勝を挙げ、打者としても、1950年に5本の満塁ホームラン、1952年には首位打者と打点王を獲得するほか、通算212本塁打を記録する、二刀流の活躍で、初代ミスター・ドラゴンズと称された、西沢道夫(にしざわ みちお)さん。今回はそんな西沢さんのプロ野球入団当初についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?

西沢さんは、1921年9月1日生まれ、
東京府荏原郡大崎町(現・東京都品川区)の出身、

身長182センチ、
体重73キロ、

学歴は、
品川区立第二日野小学校高等科
⇒旧制鹿児島総合中学校
⇒日本大学中退

ちなみに、趣味はヘラブナ釣りだそうです。

(バッティングにも活きたそうです)

「西沢道夫」なのに愛称はなぜ「文ちゃん」?

西沢さんの本名は「西沢道夫」ですが、「文(ぶん)ちゃん」と呼ばれていたそうです。

というのも、西沢さんが名古屋軍に練習生として入団した際、背がとても高かったことから、当時人気だった2メートルを超える巨漢の大相撲力士・出羽ヶ嶽文治郎(でわがたけ ぶんじろう)さんになぞらえて、コーチから、「大きいなぁー、まるで文ちゃんみたいだな」と言われ、「文(ぶん)ちゃん」と呼ばれるようになったのだそうです。

14歳の時に大日本野球連盟名古屋協会(後の中日ドラゴンズ)の入団テストに合格

そんな西沢さんは、1935年10月、第二日野小学校高等科2年生(14歳)の時、それまで、ほとんど硬球を投げたことがなかったにもかかわらず、お兄さんの勧めで、翌年1月に正式発足する予定だった大日本野球連盟名古屋協会(⇒名古屋軍⇒中日ドラゴンズ)の入団テストを受けると、20球を投げたところで、見事、合格したそうです。

(合格者は西沢さんを含め9名だったそうです)

ただ、西沢さんは、まだ14歳だったため、プロ契約の条件を満たしておらず、選手登録ができなかったことから、当初は養成選手(練習生や育成選手)として入団したそうで、

(当時、プロ野球は職業野球と言われていたのですが、認知度は低く、学生野球のスター選手には相手にされていない状態だったそうで、選手不足を見越し、養成(育成)選手の募集をかけていたのだそうです)

西沢さんは、1952年、雑誌「野球界」に綴った「苦難を越えて」というエッセイの中で、

私たち養成選手や見習選手はなかなかきつい練習をしたものです。外野の練習中何本も何本もノックを捕っている間にすっかりヘバッてぶっ倒れたこともありました

と、綴っています。

16歳と4日で公式戦初登板を果たす

その後、15歳になった西沢さんは、名古屋軍とプロ(投手)契約し、1937年9月5日、16歳と4日で、名古屋金鯱軍(なごやきんしゃちぐん)戦(洲崎球場)に7回から3番手として公式戦初登板を果たすと、2回を無失点に抑えます。

(16歳0カ月での出場は今なおプロ野球最年少記録)

(戦前、名古屋には、親会社がライバル関係にあった、新愛知新聞の「名古屋軍(中日)」と名古屋新聞による「名古屋金鯱軍」の2チームが存在していたそうですが、1942年、新聞事業令により名古屋新聞は新愛知新聞と合併して中部日本新聞社となり、結果的にこの中部日本新聞社が名古屋軍(中日)の親会社となったそうです。一方、金鯱軍は1941年に翼(東京セネタース)と合併して大洋となり、1943年に解散しています)

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プロ4年目には20勝

そして、プロ2年目の1938年6月26日の阪急戦では、16歳9ヶ月25日で、1失点完投のプロ初勝利を果たすなど早くも頭角を表すと、1940年には、20勝、防御率1.92を記録し、一躍主力投手となるのですが、

1941年は、好投するもなかなか勝ち星がつかず、7勝止まりに終わってしまいます。

「西沢道夫(初代Mr.ドラゴンズ)は延長28回完投(世界記録)していた!」に続く

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