1942年5月24日、トリプルヘッダーの3試合目の大洋戦(後楽園球場)に先発すると、大洋のエース・野口二郎投手と一歩も引かない投手戦を展開し、なんと、延長28回(世界記録)を投げ抜いたという、西沢道夫(にしざわ みちお)さんですが、この年にはノーヒットノーランも達成していたといいます。

「西沢道夫(初代Mr.ドラゴンズ)は延長28回完投(世界記録)していた!」からの続き

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大洋の「鉄腕」野口二郎投手と行き詰まる投手戦を展開していた

9回表の土壇場で味方(名古屋軍(⇒中日ドラゴンズ))が4対4の同点に追き、延長戦に突入すると、その後、西沢さんは、「鉄腕」と称された大洋のエース・野口二郎投手と一歩も引かぬ投手戦を展開したそうで、

特に、西沢さんは、回を重ねるごとにギアが上がって、140キロ超の速球とドロップカーブ(落ちるカーブ)が冴えわたり、11回裏の投球数をたったの10球で済ますと、さらに、

  • 12回裏は8球
  • 13回裏は7球
  • 14回裏は8球
  • 15回裏は9球
  • 16回裏は9球

と、4イニング連続の一桁球数で済ましたそうです。

実は、16回裏には、大洋・野口二郎投手に1-0からの2球目をセンター前ヒットを打たれ、続く野口明選手に初球を送りバントで決められて一死二塁となり、ピンチを招いてしまうのですが、

村松長太郎選手を一球で三ゴロに打ち取り、二死二塁とすると、この日3安打の苅田久徳選手を敬遠した後、次の佐藤武夫捕手をまたしても一球でレフトフライに打ち取ったそうで、

西沢さんはこの回、敬遠の四球がありながらも9球で終えて5イニング連続一桁投球数と、ストライク先行で凡打の山を築いており、16回までの投球数は187球に抑えていたのだそうです。

(一方、相手の野口二郎投手は214球だったそうです)

(戦時下だった1942年は、敢闘精神を求める軍部の指示により、「勝負は、決着がつくまでやるべきだ」と、決着がつくまでイニング無制限となっていたそうです。また、制服姿の軍人は試合を無料で観戦できたそうで、この日も軍人の姿があり、開始前から緊張感が漂っていたそうです)

26回表二死一塁の場面で西沢道夫が右中間へ長打を放つも一走の野口正明がホームでタッチアウトに

さておき、その後も、両軍0行進が続くと、26回表、名古屋軍は、二死から、野口正明選手がセカンドゴロとなり、チェンジと思われるも、守備の名手と言われていた二塁手の苅田久徳選手がまさかのエラーで、二死一塁となると、西沢さんが、カウント・ボール2から右中間を真っ二つに割る打球を打ち、一塁ランナーの野口選手は、全速力で二塁、三塁を駆け抜け、ホームへ向かうのですが、

大洋守備陣もここで負けるわけにはいかないとばかりに、ライトの浅岡三郎選手が二塁手の苅田選手へ、苅田選手が佐藤武夫捕手のミットのど真ん中へ送球すると、野口選手はタッチアウトとなってしまったのでした。

(26回が終了した後、「大リーグの延長26回の世界記録を破りました」のアナウンスが場内に響き渡ったそうです。また、観客も帰ろうとはしなかったそうです)

27回裏に佐藤武夫捕手に二塁打を打たれるも三塁を回ったところで転倒しタッチアウトにしていた

すると、西沢さんは、27回裏には二死から佐藤武夫捕手に左中間二塁打を打たれ、一打サヨナラ負けのピンチに。

(三塁打コースだったそうですが、佐藤捕手は足がもつれて一塁の野口選手に激突、ギリギリセーフの二塁打となったそうです)

しかも、続く9番の織辺由三選手にはセンター前にヒットを打たれるのですが・・・

二塁ランナーの佐藤捕手が三塁を回ったところで転倒してしまい、三塁へ戻ろうとするも、三塁手の芳賀直一選手がタッチアウトとして事なきを得たのでした。

(佐藤捕手はもともと膝を故障していたそうで、そのうえ、この日、第1試合も含めて、36回もホームベースを守っていたことから、膝は限界に来ていたそうで、それを知っていた観客は、非難することなく、佐藤捕手のプレーを称えたのだそうです)

延長28回で日没のためゲームセット(引き分け)

そして、28回裏が終わった時点で日没となったことから、午後6時27分、審判団が協議のうえ、ゲームセット(引き分け)となったそうですが、

選手の交代は、7回裏に大洋の苅田久徳選手が山川喜作選手の代打で出て、そのまま二塁の守備に就いたのみだったそうです。

延長28回も試合時間は3時間47分とさほど長時間には至っていなかった

こうして、西沢さんは、28回で311球、相手の野口投手に至っては、28回で344球も投げきっているのですが、

西沢さんは、

最後は無意識に投げていたんだろう

野口投手は、

回を追って気合が入り、最後はいつも以上の調子で投げてしまった

と、コメントしています。

そして、島秀之助主審は、後日、

あの日は西沢311球、野口344球、二人合わせて655球。途中休まないで、なお、疲れたとも、参ったとも思わなかった。なぜ、ここで打ち切ってしまうのか?と私は本部にアピールしたくらいですから

野口も、西沢も申し分ないコントロールでした。・・・野口の整球力は精密機械・・・捕手の佐藤が構えたミットに、ぴたりぴたり。・・・西沢の一番良かったのはカーブでした

・・・それからもうひとつ、15、6回頃に、フットワークがもたついていた選手たちが20回を終わったあたりからまたキビキビした動きになりましたっけ。あれは不思議でした。

と、語っており、

28回に及ぶイニングにも、誤審はなかったと言い切るほど、西沢さん、野口さんともにリズムが良く、思った以上に疲れを感じなかったのだそうです。

(延長28回に及ぶも、試合時間は3時間47分とさほど長時間には至らなかったそうです)

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この年にはノーヒットノーランも達成していた

ちなみに、西沢さんは、この年(1942年)の春先に右肘を痛めていたそうで、打たせて捕る省エネピッチングに変えていたとのことですが、

7月18日の阪急戦では、なんと、ノーヒットノーランも達成しています。(2対0)

「西沢道夫は復員後ゴールドスターで打者に転向していた!」に続く

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