東宝に移籍後は、「野薔薇の城塞」「悲しき玩具」など、劇作家・菊田一夫さんの作品のほか、「蒼き狼」(井上靖原作)、「さぶ」(山本周五郎原作)など、様々なジャンルのお芝居に、次々と出演していったという、二代目松本白鸚(まつもと はくおう)さんは、1965年には、ミュージカル初挑戦の「王様と私」で「王様」を演じ、大ヒットさせているのですが、翌1966年のミュージカル「心を繋ぐ六ペンス」では、公演の最中に足の筋を切る大ケガに見舞われるも、千秋楽まで休まず舞台に立ち続けたそうです。
「松本白鸚(2代目)は東宝移籍後は菊田一夫作品に数多く出演していた!」からの続き
「王様と私」でミュージカルに初挑戦していた
白鸚さんは、1965年4月、22歳の時に、大阪・梅田コマ劇場の「王様と私」の王様役で、ミュージカルに初挑戦すると、同年12月には、東京宝塚劇場でも再演されるほど、大ヒットを記録しているのですが、
実は、アンナ役の越路吹雪さんが、数多くの候補者の中から白鸚さんを推薦してくれていたそうで、現代劇には出演していたものの、本格的な歌唱の教育を受けたことがなかったため、ミュージカルが自分に務まるのか、という不安の中、「やれと言われたらやってみせるのが、プロの役者」との気持ちで、このオファーを引き受けていたのだそうです。
ちなみに、舞台の稽古が始まる前、越路さんが「ヒールを低くするわ」と言ってくれたそうですが、白鸚さんは、稽古が始まってようやく、王様を立派に見せるために自分のヒールを低くする、という意味であることが分かったそうで、まだ、ペーペーの俳優だった自分への越路さんの気配りが今でも忘れられないそうです。
「王様と私」より。白鸚さん(左)と淀かほるさん(右)。
(「王様と私」は、19世紀のタイを舞台に、西洋化をはかろうとしながらも古い思考様式から抜け出せない王様とその王子たちの家庭教師として招かれてきたイギリス人女性アンナとの、対立、和解までを描いた作品で、1951年にブロードウェイ・ミュージカルで初演されたそうです)
ミュージカル「心を繋ぐ六ペンス」では公演中にふくらはぎの筋を切るも千秋楽まで出演し続けていた
また、白鸚さんは、翌年の1966年には、2作目となるミュージカル「心を繋ぐ六ペンス」で、孤児として育った青年キップス役を演じているのですが、なんと、公演の最中に足の筋を切る大ケガに見舞われたといいます。
白鸚さん演じるキップスは、バンジョーを弾き、歌って踊るというコミカルな役柄だったそうで、思いがけず遺産が入り、喜んで仲間たちと踊るというシーンがあったそうですが、その時、左足のふくらはぎの筋が切れたそうで、
その瞬間、一緒に踊っていた金須宏さんと能見英俊さんがブツッという音(ふくらはぎの筋が切れた音)に気がついてくれ、「動いちゃいけませんよ」と言って、二人で白鸚さんを抱き上げ、そのまま踊ってくれたのだそうです。
(ダンサーに時々起こるそうです)
そして、その後、舞台から引っ込んだ後には、巨人軍のトレーナー・小守良貞さんに、痛み止めをもらい、足をチューブで固定してもらって、肩をポンと押され、第二部にも出演したそうで、
菊田一夫さんが青くなって駆けつけたそうですが、白鸚さんは「やります」と言って、千秋楽まで休むことなく舞台に立ち続けたのだそうです。
「心を繋ぐ六ペンス」より。左が白鸚さん。
(ケガの原因は筋肉疲労だったそうで、白鸚さんは、6月に、芸術座で第7回木の芽会の「素襖落(すおうおとし)」の太郎冠者を務めるかたわら、「心を繋ぐ六ペンス」のダンスの稽古もしていたそうで、同じダンスをするにしても、東洋と西洋では、使う筋肉が全く違ううえ、同時にやっていたことから、筋肉が悲鳴を上げたのだそうです)
母親代わりだったばあやが他界し心にぽっかり穴が空いていた
ちなみに、この時期、幼い時から、学校、稽古など生活のすべての面倒を見てくれた恩人であるばあやが、末期の胃ガンにより危篤になっていたそうで、
白鸚さんは、稽古が終わった後、伊丹空港から最終の飛行機に乗って東京に帰り、朝までばあやの病室で看病してから、朝一番でまた飛行機で大阪に戻るという生活を送っていたそうですが、
やがて、ばあやは亡くなったそうで、母親代わりとなって白鸚さんたち兄弟を育ててくれたばあやがいなくなったことで、心にぽっかりと穴が空いたそうです。
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