五代目尾上菊五郎さんのもと、長男として誕生すると、1891年5月には、三代目尾上丑之助として新富座で初舞台を踏み、以降、主に女方を務めると、1908年11月には、初代中村吉右衛門さんと共に行った興行で絶大な人気を博し、「菊吉時代」「二長町(市村座)時代」と呼ばれる一時代を築いた、六代目尾上菊五郎(ろくだいめ おのえ きくごろう)さんは、「二長町(市村座)時代」が終焉した後も、「吃又(どもまた)」「文七元結(ぶんしちもっとい)」「素襖落(すおうおとし)」「鏡獅子(かがみじし)」などの舞台で大成功を収めたといいます。

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年齢は?出身は?本名は?享年は?

六代目菊五郎さんは、1885年(明治18年)8月26日生まれ、
東京府日本橋区浜町の出身、

本名は、寺島幸三(てらしま こうぞう)で、

1949年(昭和24年)7月10日に、63歳で亡くなっています。

ちなみに、六代目菊五郎さんは、宝塚に公演に来た際、すぐ側のグラウンドで練習をしていた宝塚運動協会を見て大の野球好きとなったそうで、自身の本名を冠した「寺島ベースボールクラブ(T.B.C.)」を結成し、音羽屋は常に主役でなくてはならないと、主将・エースで四番を担当したそうです。

襲名は?屋号は?

六代目菊五郎さんの襲名は以下のように変遷しています。

  1. 二代目尾上丑之助
  2. 六代目尾上菊五郎

また、屋号は、「音羽屋」で、

お父さんは、五代目尾上菊五郎さん、
お母さんは、秋田ぎんさん、
弟は、六代目坂東彦三郎さん、
長男は、二代目尾上九朗右衛門さん、

養子には、七代目尾上梅幸さん、二代目大川橋蔵さんがいます。

歌舞伎座「寿曽我対面」の曽我五郎役で六代目尾上菊五郎を襲名

六代目尾上菊五郎さんは、1885年8月26日、五代目尾上菊五郎さんの長男として、東京市日本橋区浜町にある五代目菊五郎の別宅で誕生すると、

1886年5月22日、生後10ヶ月で、尾上幸三として、東京・千歳座の大切浄瑠璃「初幟柏葉」で、三代目中村傳五郞さんに抱かれて初お目見えし、1891年5月には、新富座で三代目尾上丑之助を襲名。1901年3月には、歌舞伎座「寿曽我対面」の曽我五郎役で六代目尾上菊五郎を襲名しています。

そして、1901年、「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」で三吉役、1902年5月には、同じく「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」で、乳人重の井(めのとしげのい)役を演じると、たちまち人気を博します。

初代中村吉右衛門とともに「二長町(市村座)時代」を築いていた

その後、1908年11月には、市村座(下谷区二長町)の経営者、田村成義さんにより、初代中村吉右衛門さんとともに市村座に迎え入れられると、2人を軸にした興行が絶大な人気を博し、「菊吉時代」「二長町(市村座)時代」と呼ばれる、一時代を築きます。

ちなみに、六代目菊五郎さんは、五代目菊五郎さんから引き継いだ世話物と舞踊を、吉右衛門さんは、時代物を次々と上演し、「佃夜嵐(つくだのよあらし)」「湯灌場吉三(ゆかんばきちさ)」など、今でも語り継がれている、名舞台の数々を生み出しています。

(二人には、それぞれ、熱狂的な贔屓(ひいき)がおり、幕が開く前から、「音羽屋っ!」「播磨屋っ!」の掛け声の応酬が凄かったと言われています)

市村座の経営者・田村成義の死去と初代中村吉右衛門の退座により「二長町(市村座)時代」が終焉

しかし、1920年11月、田村成義さんが他界、そのわずか3か月後の1921年2月には、吉右衛門さんが退座し、その時点で、事実上、「二長町(市村座)時代」は終焉してしまいます。(1927年(昭和2年)までという説もあり)

(それでも、六代目菊五郎さんは、その後も市村座を支え続けたといいます)

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六代目尾上菊五郎は長年の無理がたたって64歳で他界していた

そんな六代目菊五郎さんは、1945年10月には、帝国劇場「鏡獅子(かがみじし)」「銀座復興(ぎんざふっこう)」に出演すると、翌年の1946年12月には、京都南座の顔見世に初めて出演し、「吃又(どもまた)」「文七元結(ぶんしちもっとい)」「素襖落(すおうおとし)」「鏡獅子(かがみじし)」など、当たり役となった舞台を次々と上演し、大入りとなるのですが、長年の無理がたたり、腎臓病からくる高血圧症を発症。

1949年4月、東京劇場「盲長屋梅加賀鳶(めくらながや うめが かがとび)」公演中に、眼底出血で倒れると、同年7月3日、友人たちとの天ぷらの会の途中で急に痙攣(けいれん)を起こして寝たきりとなり、7月10日の午後0時37分、64歳で他界されています。

ちなみに、7月6日には、六代目菊五郎さんの容体を見守るため、京都での映画撮影を延期していた養子の七代目尾上梅幸さんが見舞いに来ていたそうですが、

六代目菊五郎さんは、梅幸さんに、

おい誠三(梅幸さんの本名)、おめえ映画をとるんだろう。どうしたんだ、まだいかねえのか

(延期していると答えると)とんでもねえ話だ。役者は舞台が戦場だってこたあおめえも知っているだろう。映画だって同じことだ。引き受けた仕事は責任を持たなきゃいけねえ

と、たしなめたと言われています。

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