1921年5月、四代目尾上丑之助として市村座で初舞台を踏んで以来、主に女方で活躍すると、1951年、歌舞伎座「源氏物語」で、桐壺の更衣、藤壺、玉鬘、女三宮役に扮し、人気を博した、七代目尾上梅幸(しちだいめ おのえ ばいこう)さんは、「忠臣蔵」の判官、「菊畑」の虎蔵、「千本桜」の桜丸、「廿四考」の勝頼、「鈴ヶ森」の権八など、若衆の役も演じこなすことができたといいます。

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年齢は?出身は?本名は?享年は?

七代目梅幸さんは、1915年(大正4年)8月31日生まれ、
東京府東京市赤坂区の出身、

本名は、寺嶋誠三(てらじま せいぞう)で、

1995年(平成7年)3月24日、79歳で亡くなっています。

襲名は?屋号は?

七代目梅幸さんの襲名は以下のように変遷しています。

  1. 四代目尾上丑之助
  2. 三代目尾上菊之助
  3. 七代目尾上梅幸

また、屋号は、「音羽屋」で、

お父さんは、六代目尾上菊五郎さん(養父)、
長男は、七代目尾上菊五郎さん、
兄は、二代目尾上九朗右衛門さん、
弟は、二代目大川橋蔵さんです。

「落人」のお軽役、「寿曽我対面」の五郎役で七代目尾上梅幸を襲名

七代目梅幸さんは、1915年8月31日、東京・赤坂の芸者で、のちに料亭「金林」を経営するお母さんの寺田きんさんと、九州博多出身の実業家であるお父さんのもとに誕生すると、六代目尾上菊五郎さんの養子となり、

(六代目菊之助さんが実父だという説あり)

1921年(大正10年)5月には、四代目尾上丑之助として、市村座「嫩草足柄育(ふたばぐさあしがらそだち)」の金太郎役で初舞台、1935年3月、20歳の時には、歌舞伎座で、三代目尾上菊之助を襲名、1947年2月には、伯父・六代目尾上梅幸さんの未亡人・ふじさんのたっての希望で、「落人(おちうど)」のお軽役、「寿曽我対面(ことぶき そがのたいめん)」の五郎役で七代目尾上梅幸を襲名します。

女方で人気を博す

そんな七代目尾上梅幸さんは、若い頃は、桜丸、白井権八などの若衆の役を務めていたそうですが、20歳を過ぎた頃、お父さんの六代目菊五郎さんから、「お前は立役へいけないよ」と言われたことから、女方へと進み、

「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の判官役とお軽役、「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」三段目「すし屋」のお里役、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」のお三輪役など、大役を次々と務め、たおやかな芸風で人気を博します。

九代目市川海老蔵(のちの十一代目市川團十郎)とともに「源氏物語」で「尾上菊五郎劇団」を復活させていた

やがて、太平洋戦争が始まると、地方を回る慰問興行に明け暮れ、1943~1944年にかけては、稀代の二枚目役者・十五代目羽左衛門さんの一座に加わったそうですが、

1949年、お父さんの六代目尾上菊五郎さんが他界されると、この訃報を京都で受けた七代目梅幸さんは、六代目のいなくなった「尾上菊五郎劇団」を立て直すため、急遽、東京に戻ったそうで、

1951年には、七代目梅幸さんが桐壺の更衣、藤壺、玉鬘、女三宮役に扮し、九代目市川海老蔵(のちの十一代目市川團十郎)さんが光源氏に扮した、「源氏物語」(歌舞伎座)が評判となり、1954年(昭和29年)、第三部へと上演を重ね、見事、「尾上菊五郎劇団」を復活させています。

(原作の「桐壺の巻」から「幻の巻」までを劇化し、戦後の歌舞伎界で新作が上演される筋道をつけることに成功したそうです)

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女方のほか若衆役も得意としていた

ちなみに、七代目梅幸さんの代表的な時代物の役柄は、「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」の玉手御前、「先代萩(せんだいはぎ)」の政岡、「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」のお軽、戸無瀬、「菅原伝授手習鑑 道明寺(すがわらでんじゅてならいかがみ どうみょうじ)」の覚寿、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」のお三輪、「野崎村(のざきむら)」のお光、

世話物では、「弁天小僧(べんてんこぞう)」の弁天、「魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)」のおはまなど、女方の大役を数多く演じています。

一方、「忠臣蔵」の判官、「菊畑」の虎蔵、「千本桜」の桜丸、「廿四考」の勝頼、「鈴ヶ森」の権八など、若衆の役も得意としていたそうです。

ただ、そんな七代目梅幸さんも、1995年(平成7年)3月24日、79歳で他界されています。

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