高校時代は、両親が嫌いだったことから実家を出て、祖父・二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)さんのもとへ移り住んでいたという、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんは、大学へ進学すると、映画監督に憧れて映像の仕事もするようになり、大学3年の時には、テレビドラマ「鞍馬天狗」で主演も務めたそうですが、いざやってみると、歌舞伎以外に時間を使うのはもったいないと思うようになっていったといいます。
「市川猿翁(2代目)は高校時代両親が嫌いで祖父・二代目市川猿之助と暮らしていた!」からの続き
大学(市川團子)時代は市川染五郎と中村萬之助の十代3人で「十代歌舞伎」と呼ばれ人気を博していた
1958年、慶應義塾大学に進学した猿翁(当時は市川團子)さんは、深夜までほっつき歩くなど、キャンパスライフを満喫していたそうですが、それがたたってか、大学生になって最初の舞台で、お父さんの三代目市川段四郎さんと初めて上演した新宿松竹座での「二人三番叟(ににんさんばそう)」と「連獅子」では、
「二人三番叟(ににんさんばそう)」初日の幕が閉まった直後、貧血で倒れてしまい、その後、「連獅子」のこしらえの最中には目がかすんできて、お父さんに怒られて目を覚ましたそうです。
(※こしらえとは、歌舞伎の早替わりなどで、化粧や衣装などの扮装がえを手ばやくするため、舞台脇などに化粧道具などを用意しておくこと)
それでも、猿翁(当時は市川團子)さんは、市川染五郎(現・二代目松本白鸚)さん、中村萬之助(二代目中村吉右衛門)さんの十代の3人で「車引」を上演して評判となり、「十代歌舞伎」と呼ばれ人気を博したそうです。
映画監督に憧れて映像の仕事をするようになるも歌舞伎以外に時間を使うのはもったいないと思うようになっていた
また、猿翁(当時は市川團子)さんは、映画監督に憧れ、映像の仕事もしたくなり、1958年には映画「楢山節考」、1959年には「朝焼け雲の決闘」、1961年には「大坂城物語」に出演するほか、
1960年、大学3年生の時には、テレビドラマ「鞍馬天狗」で主演も務めるのですが、実際、映像の仕事をしていると、歌舞伎以外に時間を使うのはもったいないと思うようになったそうです。
大学(市川團子)時代には念願だった新宿第一劇場「河庄(かわしょう)」の治兵衛役を演じる
そして、1960年6月には、おじいさん(二代目市川猿之助)に懇願し、新宿第一劇場「河庄(かわしょう)」の治兵衛役を演じると、劇評で「團子の心意気やよし」とほめられたそうで、とても嬉しかったそうです。
(上方の名優・二代目中村鴈治郎さんの高弟で、その舞台を何でも知る松若さんに泊まり込みで教えてもらったそうです)
ちなみに、なぜ、「河庄」を懇願したかというと、猿翁さんは、「私の履歴書」で、
それは上方和事(伝統芸風)の魅力に心奪われていたから。遊女小春を思う治兵衛は別れる決意をしてもあきらめきれず、心中へいたる。
どうにもならない泣き笑いのペーソスに観客は「かわいそうやなぁ」と言いながら手をたたいて喜ぶ。理屈を超えた非合理が歌舞伎のそもそもの魅力だと思い、心ひかれたのである
と、綴っています。
(高校時代、猿翁さんは、二代目中村鴈治郎さんの追っかけをするほどのファンだったそうです)
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