歌手・水原弘さんの付き人として、コツコツと仕事をこなす中、「渡辺プロダクション」のパーティーで渡辺晋社長の目に留まったなべおさみさんは、やがては、「シャボン玉ホリデー」でデビュー、そして、たちまちブレイクと、一躍スターダムにのし上がるのですが・・・
「シャボン玉ホリデー」のコント「キントト映画」でブレイク
なべさんが歌手・水原弘さんの付き人となって約3年後の1963年には、水原さんは「渡辺プロダクション」を退社されるのですが、
なべさんはというと、そのまま残り、ハナ肇さんの付き人を務めつつ、ラジオのディスクジョッキー、構成作家、ジャズ喫茶の司会などをこなしていたそうですが、
1964年には、「シャボン玉ホリデー」でデビューすると、安田伸さんとコンビを組んだコント「キントト映画」でたちまちブレイク。一躍スターダムにのし上がります。
(最初は、映画監督に扮したなべさんが、助監督役の安田さんを怒鳴り散らしてメガホンで頭を殴り続け、安田さんも理不尽な命令に黙々と従うのですが、最後には立場が逆転するというネタだったそうです。)
「シャボン玉ホリデー」の「キントト映画」より。安田伸さん(左)となべさん(右)。
映画俳優としての地位も確立
また、同年には、「いいかげん馬鹿」で映画デビューを果たすと、
その後も、
1964年「明日の夢があふれてる」
1965年「日本一のゴマすり男」
1966年「てなもんや東海道」
「鐘」
1967年「青春太郎」
「クレージーだよ 天下無敵」
「青春太郎」
「喜劇 ニューヨーク帰りの田舎ッペ」
「座頭市 血煙り街道」
「ドリフターズですよ! 前進前進また前進」
と、立て続けに映画に出演。
1968年には、映画「温泉ゲリラ 大笑撃」で初の主演に抜擢されると、続く、映画「吹けば飛ぶよな男だが」(山田洋次監督)でも主演に抜擢され、映画俳優としての地位も確立されたのでした。
映画「吹けば飛ぶよな男だが」より。犬塚弘さん(左)となべさん(右)。
師匠のハナ肇に潰されていた?
そして、その後も、なべさんは、数多くの、テレビ、ラジオ、舞台に出演されるのですが、
1974年、35歳の時、
ここにいたら腕がつかない
と、「渡辺プロダクション」を退社。
その理由は、言葉通り、テレビの申し子のような「渡辺プロダクション」に居続けたら、腕がつかないこともあったそうですが、
企画もしましたけど、「麻雀放浪記」(角川文庫)とかも。コラムとか書いてたから双葉社に頼んで(原作者の)阿佐田哲也さんに会ってOKもらって。
これ映画にしましょう、スタンダード35ミリ、白黒で。終戦直後のガード下の雰囲気はカラーじゃ出ない、と話していたら、師匠のハナ肇が当時下降線で、ぼくは上昇。不興を買う。そういう企画はつぶされる。
東宝のある監督がぼくをアメリカに連れてって空手の話をやると。勝負かけてみたら、(ハナ肇)師匠が東宝に乗り込んでアウト。
寅さんの併映の映画「俺は田舎のプレスリー」(1978)、衣装合わせまで行って、台本覚えて役を組み立てようとしていたら撮影の連絡が来ない。師匠が乗り込んで、松竹に渡辺プロから出さないと言ってると
と、ことごとく、自分がしたい仕事を師匠のハナ肇さんに潰されたことが、一番大きな理由だったようです。
(結局、ハナ肇さんの付き人は1年ほど務めたそうです)
俳優生命を断たれていた
こうして、「渡辺プロダクション」を退社されたなべさんは、もともと、喜劇役者を目指していたこともあり、翌年の1975年には、舞台「たいこどんどん」(井上ひさし作)に出演。
すると、無我夢中で務め上げたというこの舞台で、「ゴールデンアロー賞演劇部門新人賞」を受賞。気を良くしたなべさんは、パーティーを開催するのですが・・・
出席してくれた「東映」の演劇プロデューサーに、
ね、山田五十鈴さんはね、芸術座が決まるとね、2か月前から帝国ホテルに泊まって、毎日稽古場にやって来て、たった独りで着物の引き摺りや、三味線の稽古をね、なさっているのよ
と、俳優への転身を思いとどまるよう諭されたのだそうです。
「ルックルックこんにちは」でタレントとして人気を博す
また、なべさんは、「渡辺プロダクション」退社後、実質、干されていたそうで、俳優としての仕事が来なくなったことから、原点回帰と、森繁久彌さんの付き人に。
その後は、森繁さんの付き人を務めるかたわら、地道な活動を続けると、1978年には、ワイドショー「ルックルックこんにちは」の「ドキュメント女ののど自慢」の司会で一躍人気を博し、以降、タレントとして活躍されたのでした。
「なべおさみのデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く