1966年から、自主公演「春秋会」を開始し、主に古劇を復活させることに意欲を燃やしていた、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんですが、1968年には、国立劇場「義経千本桜」で初めて宙乗りを披露すると、反響を呼び、以降、伝統的な歌舞伎に「宙乗り」「早替り」などのケレンを取り入れてエンターテイメント性に富んだ舞台で一世を風靡します。そして、1986年からは、「スーパー歌舞伎」も手掛けるなど、さらに歌舞伎界に新たな風を吹き込みます。
「市川猿翁(2代目)は春秋会では自ら劇場を借り脚本・演出もしていた!」からの続き
国立劇場「義経千本桜」で初めて宙乗りを披露すると大当たりとなっていた
祖父・初代市川猿翁さんと父・三代目市川段四郎さんを相次いで亡くし、(後ろ盾をなくしたことで)良い役をもらえない中、それならば打って出ようと、1966年7月には、自主公演「春秋会」で古劇復活を始めた猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんですが、
そのかたわら、1968年4月、28歳の時には、国立劇場「義経千本桜」で初めて宙乗りの引っ込み(退場)を披露すると、これが大当たりとなります。
宙乗りは演出家の戸部銀作の提案がきっかけだった
実は、この「義経千本桜」(2ヶ月の通し上演)では、猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんは、4度目の忠信役だったそうですが、演出家の戸部銀作さんに「幕切れに宙乗りをやらないか」と提案されていたのだそうです。
そこで、猿翁さんは、幕末の江戸歌舞伎の名優・四代目市川小団次さんの資料を参考にすると、古劇を見たまま書いたその資料には、「このところ狐忠信、宙乗りにて見物席へ入る」と記されていただけで、本当にできるのかなと不安になったそうですが、まだ28歳と若かったこともあり、「よし、やってみよう」という気になったのだそうです。
(宙乗りは明治初期までは度々行われていたそうですが、その後はケレン(見た目本位の奇抜さをねらった演出で、宙返りや綱渡り、早替りなど)蔑視(べっし)の高尚趣味が主流となったそうで、ほとんど行われていなかったのだそうです)
宙乗りする方法を試行錯誤していた
とはいえ、小団次さんの資料にある「宙乗りにて見物席へ入る」にはどうすればいいのか悩んだそうで、客席上を斜めに飛ぶ案もあったそうですが、消防法の制約からネットなしで観客の頭上を飛ぶことができないと分かり、断念。
結局、花道上空の天井近くに、花道と平行してワイヤを張り、花道のつけ際より吊り上がって、3階客席後方に仮設した揚幕(あげまく)(鳥屋)に入る案に落ち着いたそうで、自衛隊の落下傘用の胴着を改良した胴着で体を吊り、テストしたところ、うまくいったのだそうです。
(最初に危険を伴うテストを繰り返す劇場側の責任は大変なものだったそうです)
宙乗りは当初は賛否両論だった
ちなみに、この宙乗りには、「理屈なく涙がこぼれた」「歌舞伎にもこんな面白い演出があったのか」といった賛辞があった一方で、
猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんの本名の「喜熨斗(きのし)」と木下サーカスをかけて「きのしサーカス」と言われたり、先輩から「猿の犬かきを初めて見た」などと、冷やかされたりもしたといいます。
伝統的な歌舞伎にケレンを取り入れた演出が大当たりし他の歌舞伎役者もするようになっていった
それでも、同年(1968年)、「四ノ切(しのきり)」でも、宙乗りを披露すると、以降、ケレンを歌舞伎に取り入れ、「市川猿之助宙乗り狐六法相勤め申し候」と銘打つ興行は、観客を沸かせたほか、歌舞伎を観たことがない人まで動員する大当たりとなったそうで、猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんは、歌舞伎界では孤立無援となってしまうのですが、
宙吊りで演技する猿翁(当時は三代目市川猿之助)さん。
やがて、猿翁さん以外の歌舞伎役者が、宙乗りのない通常の「四ノ切」を上演するも、つまらないと観客が激減したそうで、
ついに、七代目尾上菊五郎さんのような、権門家の宗家までもが、客寄せのため、猿翁さん流の「四ノ切」を上演し始め、
近年では、十二代目市川團十郎さん、九代目松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)さん、十八代目中村勘三郎さんなど、猿翁さんの後輩たちも、舞台で宙乗りの演出を行うようになっています。
現代風歌舞伎「スーパー歌舞伎」も大反響となっていた
さらに、猿翁(当時は三代目市川猿之助)さんは、1986年からは、古典芸能化した歌舞伎とは異なる演出の、現代風歌舞伎「スーパー歌舞伎」も開始し、1作目として、ヤマトタケルの波乱に満ちた生涯をドラマチックに描き出した「ヤマトタケル」を上演すると、
派手な立ち回り、骨太な人物描写、セリや宙乗りをフル活用した大掛かりな舞台装置、煌びやかな衣装、下座音楽と現代劇音楽を融合させた演出が大反響を呼び、以降、シリーズ化されるまでになっており、
(現在は、「スーパー歌舞伎II」として継続されています)
猿翁さんは、「私の履歴書」で、
逆境になればなるほど燃えるのが私の性分だった。23歳で猿之助を襲名した直後、祖父の初代猿翁、父の三代目段四郎が続けて亡くなった。
肉親の後ろ盾を失うと、この世界では役がつかなくなり、芸を教わることもままならない。これからというときに劇界の孤児になってしまった。屈してなるものか。闘いは生き方そのものとなった。思えば、祖父も父も命を削って試練を与えてくれたのだろう。
宙乗りや早替わりで観客をあっといわせる私の歌舞伎はケレン、邪道とみなされたが、歌舞伎は本来そういうものだったのだ。戦国の世が終わり、生命のエネルギーを燃えあがらせたのが歌舞伎。きらきらと時代の先端を走ったのが、かぶき者。かぶくは傾く、からきている。
天を飛び、地に潜り、生きかわり死にかわるケレンの輝きを取り戻したい。新・新歌舞伎を創始しようと私は江戸の精神(こころ)を追い求めた。異端児と評された私は、正統のかぶき者だと思っている。
こんなふうに歌舞伎を客観的にみられるのは、代々の考えで普通の人と同じように学校へ行ったからだろう。歌舞伎役者で大学に進んだのは私が初めてだった。
歌舞伎であって歌舞伎を超えるもの。スピード、スペクタクル、ストーリーの3Sを備えたスーパー歌舞伎はそのたまものだ。古典の新演出と復活に加え、スーパー歌舞伎が私の歌舞伎の柱となった。
宙乗りは5千7百回を超えた。なぜ飛ぶのか、とよく聞かれた。天翔るそのとき、消えてなくなる今が永遠の時間となる。いつまでも残る夢がそこにあった。
と、語っています。
「市川猿翁(2代目)は仏パリのオペラ「コックドール」でも演出していた!」に続く
「ヤマトタケル」より。