七代目松本幸四郎さんのもと、長男として誕生すると、1915年1月、初代松本金太郎として、帝国劇場「山姥」で初舞台を踏んで以来、並外れた美貌、品格ある風姿、華のある芸風で、空前の「花の海老さま」ブームを巻き起こし、絶大な人気を博した、十一代目市川團十郎(じゅういちだいめ いちかわ だんじゅうろう)さんですが、十一代目を襲名して、わずか3年半後に、胃ガンにより亡くなっています。
年齢は?出身は?本名は?享年は?
十一代目市川團十郎さんは、1909年1月6日生まれ、
東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)の出身、
本名は、堀越治雄(ほりこし はるお)で、
1965年11月10日に、56歳の若さで亡くなっています。
襲名は?屋号は?
十一代目市川團十郎さんの襲名は以下のように変遷しています。
- 初代松本金太郎
- 九代目市川高麗蔵
- 九代目市川海老蔵
- 十一代目市川團十郎
また、屋号は、「成田屋」で、
お父さんは、七代目松本幸四郎さん、
養父は、五代目市川三升さん、
お母さんは、寿枝さん、
2番目の弟は、初代松本白鸚さん、
3番目の弟は、二代目尾上松緑さん、
長男は、十二代目市川團十郎さん、
長女は、日本舞踊家の初代市川壽紅さん、
と、芸能一家です。
市川宗家に養子に入り十一代目市川團十郎を襲名
十一代目市川團十郎さんは、1909年1月6日、お父さんの七代目松本幸四郎さんとお母さんの寿枝さんのもと、3人兄弟の長男として東京府東京市日本橋区(現在の中央区日本橋)で誕生すると、
1915年1月、6歳の時には、松本金太郎として、帝国劇場「山姥」で初舞台を踏み、1929年4月、21歳の時には、帝国劇場「源氏烏帽子折」で九代目市川高麗蔵(こまぞう)を襲名します。
そして、1939年には、父の師匠である九代目市川團十郎の娘婿・市川宗家の五代目市川三升に望まれ、翌1940年4月に、市川宗家(堀越家)へ正式に養子に入ると、同年5月、32歳の時、歌舞伎十八番の内「ういらう」の外郎売り実は曽我五郎で、九代目市川海老蔵を襲名。
この頃あたりから、並外れた美貌と気品を兼ね備え、昭和歌舞伎の花を代表する役者として、将来を嘱望されるようになったそうです。
当たり役は「助六由縁江戸桜」の助六役、「源氏物語」の光源氏役、「若き日の信長」の信長役ほか多数
そんな十一代目市川團十郎さんは、1945年には、太平洋戦争に伴い、各地で慰問巡業を余儀なくされたそうですが、翌年の1946年には、東京劇場「助六由縁江戸桜」で初役の助六役を演じて評判となると、1951年には、「源氏物語」で美貌と憂いを備えた光源氏役を好演し、記録的な大ヒット。
翌年の1952年には、「若き日の信長」の信長役を演じて、不動の人気を確立し、空前の「海老さまブーム」を巻き起こすと、
以降、(助六役、光源氏役、信長役以外にも)「勧進帳」の富樫左衛門役、「天衣紛上野初花(河内山)」の片岡直次郎役や河内山宗俊役、「与話情浮名横櫛」(切られ与三)の与三郎役、「青砥稿花紅彩画」(白浪五人男)の弁天小僧役、「近江源氏先陣館(盛綱陣屋)」の佐々木盛綱役、「藤十郎の恋」の初代坂田藤十郎役などを次々と演じて当たり役となっています。
「十一代目市川團十郎」襲名披露興行は低迷気味だった歌舞伎人気に再び火をつけるため盛大に行われた
そんな中、1956年、48歳の時、養父の市川三升さんが他界すると、周囲の十一代目襲名の期待が高まったそうですが、大きすぎる名跡を継ぐことに本人の逡巡(しゅんじゅん)もあり、なかなか実現には至らなかったそうです。
それでも、1962年4月には、ついに、十一代目市川團十郎を襲名すると、当時は、映画全盛の時代だったことから、低迷気味だった歌舞伎人気に、再び火をつけるため、
(宣伝文句に「松竹の社運を賭す」という言葉が踊るほどだったそうです)
襲名披露興行は4月、5月の2ヶ月間で、250人を超える歌舞伎役者が出演するほか、「口上」にも成田屋一門の大幹部約80人が並ぶ壮観さで、「世紀の大襲名」「一億円の襲名」と言われるほど、これまでにない規模で行われたのだそうです。(実際には、2億4000万円もの収入があったそうです)
(ちなみに、九代目市川團十郎さんが他界後、團十郎は59年間に渡って不在だったそうですが、十一代目市川團十郎(当時は九代目市川海老蔵)さんが、團十郎を継ぐ時、養父である五代目市川三升さんに、生前の功績を讃えて「十代目市川團十郎」を追贈し、自身は十一代目市川團十郎を継いだのだそうです)
十一代目市川團十郎襲名から3年半後に他界
しかし、十一代目市川團十郎さんは、1965年7月28日、歌舞伎座「日本演劇協会演劇人祭」での「助六」の素踊りで舞台に上がるも、同年11月18日、團十郎襲名からわずか3年半後、56歳で胃ガンにより他界され、これが最後の舞台となっています。
(十一代目市川團十郎さんは末期の胃ガンだったそうですが、最後まで本人には伝えられなかったそうで、死去する1ヶ月前の記者会見では、「来年(1966年)の正月からまた舞台に立つ」とコメントしていたそうです)