1996年オフ、すったもんだの末、長嶋茂雄監督との直接対談後、巨人を退団することを決意したという、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、1996年11月28日、巨人退団会見が終わった後、ヤクルトと日本ハムからオファーがあったそうですが、最終的には日本ハムに移籍します。
「落合博満は長嶋茂雄監督と直接対談し巨人退団となっていた!」からの続き
ヤクルト・野村克也監督と日本ハム・上田利治監督の間で落合博満争奪戦が繰り広げられていた
11月28日午後8時、落合さんは、長嶋茂雄監督同席で巨人退団会見をしているのですが、その1時間前の午後7時には、ヤクルトの野村克也監督が明治記念館での納会のあいさつで、「落合くんをぜひ取ってくださいと(桑原)オーナーにお願いしました」と、落合さん獲得を宣言しており、その後、落合さんに直筆のFAXを送信したといいます。
また、日本ハムの上田利治監督も、「勝つために必要な選手」と述べ、落合さん獲得に名乗りを上げると、11月29日には、落合さんの留守番電話にメッセージを吹き込んだそうで、上田監督と野村監督の間で、熾烈な落合さん争奪戦となります。
日本ハムに入団することを決意
その後、落合さんは、12月3日にはヤクルトの野村監督と、翌12月4日には日本ハムの上田監督と、それぞれ交渉を行うと、12月9日には、ヤクルトに断りを入れ、日本ハムの球団事務所に出向いて、入団する意思を伝えたそうです。
日本ハム入団を決めた理由とは?
ちなみに、落合さんが、なぜ日本ハムを選んだかというと、落合さんは、もともと、「交渉は1回で条件提示をしてください」「2回は会いません」ということを(マスコミを通じて)伝えていたそうですが、
(落合さんは、巨人を自由契約となった後、新聞の報道などで、ヤクルトと日本ハムが落合さん獲得に乗り出しているという記事を読み、球団がどこかということよりも、「これでまだ来季も野球が続けられる」という安堵感の方が大きかったそうで、そのため、2回、3回と会って話がややこしくなるのが面倒だと思い、1発で答えを出して欲しいと思ったのだそうです)
ヤクルト・野村監督からは、「まだ年俸(条件面)が決まってないんだよ。だからもう一回会ってくれ」と、2回目の交渉を持ち出されたそうです。
一方、日本ハムの上田監督は、1回目の交渉で、2年契約・年俸3億円を提示してきたそうで、この時点で、答えを出し、約束事をしっかり守ってくれたという理由で、日本ハムに決めたのだそうです。
(落合さんは、後に、日本ハムの大社義規オーナーが落合さんの条件を15秒で即決したことを知ったそうです)
実は条件(年俸)で日本ハムへの移籍を選んでいた?
ただ、落合さんが条件面で日本ハムを選んだという噂もあります。
落合さんは、1996年12月3日、ヤクルト・野村監督と交渉した際、背番号6の確約と1年契約・年俸2億5000万円プラス出来高払い5000万円(金額は推定)を提示されるも、出来高払いに難色を示し、返事を保留すると、翌12月4日、日本ハムとの交渉で、上田監督から2年契約・年俸3億円を提示され、熟考。
ただ、これに、野村監督が激怒し、田園調布の落合さんの自宅前に真っ赤なガウン姿で現れて、
オレは男気をもって声をかけたんだぞ
と、声を荒らげ、
落合が日ハムに行けばおカネで動いたと周囲は思う。ヤクルトに入れば一般中高年のファンも、さすが落合、男の意地を見せたとなる。
落合は中高年のヒーローだ。リストラが社会現象にもなってる中で、落合の選択を世間も注目している。中高年の留飲が下がるような決断をしてほしい
と言ったという話があるのですが、野村克也氏は既に他界しており、真偽は不明です。
「落合博満はセ・パ両リーグ1000本安打(プロ野球史上2人目)を達成していた!」に続く