阪神入団5年目の1978年も、打率3割1分8厘、32本塁打、102打点と素晴らしい成績を残すほか、球宴では3打席連続本塁打を記録し、MVPも獲得した、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんですが、5月には、頭部死球を受け、検査の結果は異常はなかったものの、それ以来、怖くて右足が思い切り踏み込めず、打てなくなった時期があったそうで、このシーズンは、打撃コーチが山内一弘さんから遠井吾郎さんに代わっていたことから、ファンやマスコミからは遠井コーチに批判が殺到していたといいます。

「掛布雅之は入団5年目の球宴で3打席連続本塁打を記録していた!」からの続き

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遠井吾郎打撃コーチが個人練習に付き合ってくれた

掛布さんは、阪神入団5年目の1978年5月10日、大洋(現・DeNA)戦で頭部死球を受けると、検査の結果、幸い異常はなかったものの、それ以来、怖くて右足が思い切り踏み込めず、打てなくなってしまったそうで、

調子を取り戻すまでは、甲子園(ホーム)での試合の時は個人練習を続けると決め、全体練習の2時間前には球場に入って打撃マシンに向かい続けたそうですが、

そんな掛布さんの個人練習に、今シーズンから打撃コーチとなった遠井吾郎さんが黙々と付き合ってくれたそうです。

(山内一弘打撃コーチは1977年オフに退団したそうです)

打率が下がった原因は頭部死球だったが遠井吾郎打撃コーチに批判が殺到していた

ただ、3割3分ほどあった打率が、一気に2割8分くらいまで下がったことから、マスコミやファンは「山内がいないと、掛布は3割を打てない」「遠井じゃダメ」「遠井がバッティングコーチになったから、掛布は打てなくなったんだ」などと、遠井さんに批判が殺到したそうです。

遠井吾郎打撃コーチはファンやマスコミの批判にさらされても、黙って練習を手伝ってくれていた

それでも、遠井コーチは、熱心な指導の山内コーチとは違い、黙ってマシンにボールを入れ、必死にバットを振る掛布さんをじっと見守っているだけだったそうです。

(掛布さんが、ナイターに備え、「11時くらいから練習します」と言うと、遠井コーチは掛布さんよりも早く室内練習場に来て、マシンの準備をして待ってくれていたそうで、それから、1時間くらい黙々とボールをマシンに入れてくれたそうです)

すると、そんな練習を4、5日ほど続けたある日のこと、中日戦で、(ピッチャーの頭上を越えた)二塁手の高木守道選手のところにボテボテの内野安打を打つと、これをきっかけにこの試合で複数安打して、ようやく呪縛が解けたように、再び、打率を3割に戻すことができ、完全に立ち直ることができたのだそうです。

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遠井吾郎打撃コーチが1度も技術的な指導をしてくれなかったことが不満だったが後に感謝していた

ちなみに、掛布さんは、遠井コーチが一度も技術的な指導をしてくれなかったことを不満に思い、

なんで、何も言ってくれなかったんですか

と、尋ねたことがあったそうですが、

遠井コーチは、

カケ、オマエは3割バッターだぞ。お前に何を言う必要があるんだ。俺は、(打率)3割を打ったことないんだぞ。できることは、しっかり見ることだけや

と、言ったそうで、

掛布さんはその言葉に、遠井コーチが自分を信じてくれているのだと気づき、

何も言わない勇気を持てる遠井さんこそ、もしかしたら一番強いコーチなのかな

と、思ったそうです。

また、掛布さんは、後に、実は遠井さんが3割を打っていたことを知ったそうで、マスコミやファンの批判に耐えながら、復調の時をじっと待っていてくれたことに、

自分で考えることの大切さを教わった

と、今でも感謝しているそうです。

(掛布さんが再び3割を超えた時の、遠井さんの喜んだ顔は今でも忘れられないそうです)

「掛布雅之は田淵幸一トレード後の4番起用に重責を感じていた!」に続く

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