「空白の一日(1978年11月21日)」を利用した契約で大騒動となる中、日本野球機構コミッショナーの金子氏に、「両球団によるトレードで解決せよ」と提示されるも、当初はトレードを拒否していた阪神が同意し、一旦、阪神に入団してから、すぐに、巨人のエース・小林繁投手との交換トレードで、念願の巨人入りを果たした、江川卓(えがわ すぐる)さんですが、なぜ、阪神は、一転して、江川さんのトレードに応じたのでしょうか。

阪神・小津正次郎球団社長と共に阪神入団会見をする江川卓

「江川卓は阪神入団直後に小林繁とのトレードで巨人入りしていた!」からの続き

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阪神・小津正次郎球団代表は一転して江川卓を巨人にトレードで出したことで猛バッシングを受けていた

1978年12月22日、金子コミッショナーが、「江川には一度、阪神と入団契約を交わしてもらい、その後、すぐに巨人へトレードされる形での解決を望む」と、強く要望した際には、

「たとえ王貞治を巨人が(トレードの交換要員として)用意してもトレードには(江川を)出さない」と、拒否する発言をしていた阪神・小津正次郎球団代表ですが、

翌1979年1月31日、キャンプイン前日には、一転、交換トレードが実現したことから、口ではトレードを拒否しながら裏ではトレードを画策していたのかと、「オズ(小津)の魔法使い」と世間から猛バッシングを浴びています。

阪神が一転して江川卓のトレードを受け入れた理由とは?

では、なぜ、阪神は、一転して、江川さんの巨人へのトレードに同意したのでしょうか。

産経WESTの記者・植村徹也氏によると、2000年頃、阪神の久万俊二郎オーナー(1978年当時は取締役)から、その理由を、

小津さんは最後まで知らなかったんだよ。あれ(江川さんと小林繁投手との交換トレード)はこっち(阪神電鉄本社)がある人を介して、鈴木さん(セ・リーグ会長)に話を持っていったのよ。

小津さんは最後まで抵抗する気だったけど、最悪それでは巨人がリーグから脱退するでしょう。そうしたらウチ(阪神)は困るでしょ・・・。タイガースとしてあの人(外部の新聞記者K氏)に頼んだのは、アレが初めてでしょう。鈴木さんと懇意だ・・・ということでね

と、聞いたといいます。

つまり、当時の阪神電鉄本社首脳(当時のオーナーは阪神電鉄社長の田中隆造氏)は、巨人との共存共栄こそが安定的な球団経営の唯一無二の道と考え、江川さんを巨人にトレードで渡し、戦力的に実を取りながら、全てを丸く収めるべく、鈴木龍二セ・リーグ会長に巨人との間を取り持ってもらおうと、鈴木会長とパイプを持つ外部の新聞記者に要請し、ひそかに交渉を進めていたというのです。

阪神の小津正次郎球団代表は日本テレビの小林与三次社長から小林繁との交換トレードを持ちかけられていた

実は、小津球団代表は、日本テレビの小林与三次社長から、

(巨人の)正力オーナーは本気で機構脱退(新リーグ結成)を考えている。けれど、読売本社としてもそれは本意ではない。そこで、なんとか協力してもらえないだろうか

と、”江川さんと小林繁投手の交換トレード”を電話で持ちかけられていたそうで、

独断で決められる話ではないため、一旦保留していたそうですが、後日、オーナーである阪神電鉄本社社長の田中隆造氏から「巨人に協力してやれ」と司令が下ったそうで(つまり、田中オーナーにも小林社長からの協力要請が入っていた)、

不本意ながら、命令通り、”江川さんと小林繁投手の交換トレード”に応じていたのでした。

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小津球団代表が阪神(自身)のメンツを保つため描いた筋書きだった

そして、そんな小津球団代表が、阪神(自身)のメンツを保つため描いた筋書きが、

  1. 深夜に鈴木会長から電話が入り、「東京へ来い」と言われた。
  2. 鈴木会長に会って「球界の繁栄と結束のため大乗的立場に立って考慮してくれ」と懇願された。
  3. 一度は躊躇(ちゅうちょ)するが、「世論の批判はすべて2人が責任を持つ」と言われ了承した。たとえ言われなくともそれで押し切り、後で非難されても一切、弁解しない。

だったのでした。

「江川卓は交換トレードではなく金銭トレードを巨人に頼み込んでいた!」に続く

阪神・小津正次郎球団社長と共に阪神入団会見をする江川卓
阪神・小津正次郎球団社長と共に阪神入団会見をする江川さん。

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