中学時代に三塁手から投手に転向させられたという、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、廿日市(はつかいち)高校時代も、引き続き投手をしつつ、一塁手もしていたそうですが、高校3年生の夏の広島大会1回戦ではノーヒットノーランを達成したこともあったそうです。

廿日市高校時代の山本浩二

「山本浩二は広陵高校から誘われるも公立高校を受験していた!」からの続き

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山本浩二は高校2年生の夏の広島大会は監督の勧めで「エースのジョー」をマネして1回戦で惨敗していた

1962年、高校1年生の夏の広島大会で準々決勝で敗退した山本さんは、1963年、高校2年生の夏の広島大会では、1回戦で海田高等学校に2対8で完敗してしまったそうですが(四球連発での自滅だったそうです)、

実は、野球部の辻幸夫監督に勧められるまま、「エースのジョー」こと巨人の城之内邦雄投手の投球フォームをマネたことが原因だったそうで、

(この試合が最後の試合となった3年生の先輩には申し訳なくてたまらなかったそうです)

3年生が引退し、新チームの練習が始まる時には、監督と話し合ってフォームを元に戻したそうです。

(ちなみに、城之内投手は、上体をそらし気味に、首を振りながら荒々しく投げ込むダイナミックなフォームが持ち味で、入団1年目から開幕投手に指名されると、威力ある速球とシュートを武器に、いきなり24勝を挙げて新人王に輝いているのですが、山本さんが辻監督に城之内投手のフォームを勧められたのはその翌年のことだったそうです)


往年の城之内邦雄投手。

山本浩二は高校3年生の夏の広島大会1回戦はノーヒットノーラン、2回戦は3安打完封していた

すると、1964年、高校3年生の夏の広島大会では、1回戦の尾道東高等学校戦でノーヒットノーラン(7対0で7回コールド)、2回戦の尾道北高等学校戦では3安打完封(4対0)し、3回戦の盈進(えいしん)高等学校戦でも3対1、準々決勝の誠之館(せいしかん)高等学校戦でも3対0と勝利するのですが、

準決勝の広陵高等学校戦では、1対9で惨敗し、山本さんの高校最後の夏は終わったのでした。

(ただ、3回戦からは憧れの広島市民球場で試合が行われたそうで、広島カープと共に育った山本さんにとって、広島市民球場は聖地であり、甲子園などとても考えられなかった高校時代は、県大会で勝ち進み、広島市民球場で試合をすることが夢だったことから、とても嬉しかったそうです)

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山本浩二は高校3年生の時には南海ホークスの鶴岡一人監督が練習を観に来るも緊張のあまり全くいいところを見せられなかった

ちなみに、この年(1964年)、夏の広島大会が始まる直前には、野球部の辻監督の広島商業高等学校時代からの親友という、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の鶴岡一人監督が練習を観に来ていたそうで、

(鶴岡さんの後援会「ちょうちん会」に山本さんの第二の父親のような人がいるそうですが、その人が鶴岡監督に山本さんのことを話したことで観に来てくれたという話も)

鶴岡監督は、この時、既に、18年連続で南海の監督を歴任中で、1379勝、リーグ優勝8回を含むAクラス17回、Bクラスはわずかに1回という、大監督だったことから、

(最終的には、23年連続で南海ホークスの監督を務め、プロ野球史上最多の通算1773勝、リーグ優勝11回を含むAクラス21回、Bクラスわずかに2回という驚異的な成績を収めています)

そんな鶴岡監督にすぐ目の前で見られていると思うと、山本さんは、緊張のあまり、全くいいところを見せられなかったそうで、

(投球の方は、ブルペンで何を投げたか覚えておらず、打撃の方も、打撃投手が緊張してものすごい速い球を投げてきたことから、さっぱり当たらずだったそうです)

鶴岡監督からは、

プロに行くにはまだ早いだろう

プロに行くより大学に行った方がいいんじゃないか

と言われてしまったのだそうです。

「山本浩二は法政大学に受験していない英文科で合格していた!」に続く

廿日市高校時代の山本浩二
廿日市高校時代の山本浩二さん。

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