1964年、高校3年生のとき、南海ホークスの鶴岡一人監督が練習を観に来た際、緊張のあまり、全くいいところを見せられず、大学進学を勧められたという、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、法政大学を受験し、無事、合格したそうですが、なぜか、合格通知には、文学部英文学科と書いてあったといいます。
「山本浩二は廿日市高校時代は投手だった!ノーヒットノーランも!」からの続き
鶴岡一人監督に大学に進学した方がいいと言われ、法政大学進学を決めていた
高校3年生の時、夏の大会が始まる直前に、練習を観に来ていた南海ホークスの鶴岡一人監督に、「今の実力ならプロに行くより大学に行った方がいい」と言われてしまったという山本さんは、
(鶴岡監督は、23年連続で南海ホークスの監督を務め、プロ野球史上最多の通算1773勝、リーグ優勝11回を含むAクラス21回、Bクラスわずかに2回という驚異的な成績を収めています)
両親の希望もあり、大学に進学することに決め、推薦してもらった法政大学一本に絞ったそうです。
(実際には、広島カープの木庭教スカウトから誘いがあったそうですが、プロからの誘いは、一切、山本さんの耳には入ってこなかったのだそうです)
法政大学のセレクションでは錚々たるメンバーが集まっていたことから少し気後れしていた
そして、山本さんは、1964年12月には、淡路島(兵庫県洲本市)で行われた法政大学のセレクションを受けたそうですが・・・
そこには、全国から錚々(そうそう)たるメンバーが集まってきていて、夏に全国制覇した高知中学高等学校の岡本道雄選手(後の高知中学高等学校野球部監督)ら甲子園組もいたそうで、少し気後れしたそうです。
(同期には、後に親友となる法政大学第一高等学校の田淵幸一さんもいたそうです)
法政大学のセレクションでは富田勝と意気投合していた
ただ、このセレクションでは、興国高等学校の富田勝さん(後にプロ野球入り)、広島商業高等学校の桑原秀範さん(後の広島商野球部監督)、玉島商業高等学校の池田周弘さん、高知中学高等学校の岡本道雄さんら、西日本の者同士が自然と集まって仲良くなり、
(言葉の違いから、どうも東日本の人たちは気取った感じがして合わなかったそうです)
特に、富田勝さんとは意気投合したそうで、富田さんに「帰りに大阪のオレの家に寄れや」と誘われ、富田さんの自宅に泊めてもらったそうです。
(もう一人、一緒に泊めてもらった人がいたそうですが、誰だったかはっきり覚えていないそうです(笑))
法政大学は経営学部と経済学部を受験するも、合格通知は文学部英文学科になっていた
その後、年が明け、法政大学の経営学部と経済学部を受験した山本さんは、無事合格したそうですが、合格通知が届いたのは、なぜか文学部英文学科だったそうです。
そこで、山本さんは、法政大学野球部に入部後、お兄さんが4年生でマネージャーをしていた(野球部の同僚の)堀場修さんに聞くと、
学部ごとに野球部推薦の枠があって、この年から英文科が加わったそうですが、「名前も聞いたことがない広島の廿日市高校だけど、英文科でいいだろう」と、おおらかな方法で決まっていたそうで、山本さんは、法政大学野球部始まって以来の英文学科部員となったのだそうです。
(山本さんがいた廿日市高校野球部は、山本さんが2年生の秋は部員が8人しかおらず、陸上部から1人借りてきて秋のリーグ戦に参加していたほか、3年生になって新人が入っても部員は14人で、全員がベンチに入れたそうで、野球部としては全くの無名高校だったそうです)
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法政大学時代の山本浩二さん。