広島カープ監督就任3年目の1991年4月14日の巨人戦、1対0のリードで迎えた8回、守護神・津田恒実投手を登板させるも、右前打、四球、左前打であっという間に同点とされ、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、わずか9球で津田投手を交代させているのですが、津田投手からは、その日の夜、池谷公二郎投手コーチを通して「二軍に落として欲しいと」言われていたといいます。
「山本浩二の監督初優勝は就任3年目(1991年)!7.5ゲーム差を逆転していた!」からの続き
山本浩二は監督就任3年目(1991年)津田恒実をわずか9球で交代させていた
1991年4月14日、開幕6戦目の巨人戦、広島1対0のリードで迎えた8回、山本さんは、(先発した北別府学投手のリリーフとして)故障から復活を期す守護神・津田恒実投手を2番手として投入するのですが、
(津田投手は、1982年に広島カープに入団すると、11勝6敗114三振で新人王、1986年には22セーブ防御率2.08で5度目の優勝に大きく貢献、1989年は12勝5敗28セーブ防御率1.63で最優秀救援投手も、1990年には、4月に右肩を、8月には膝を故障し、わずか4試合の登板に終わっていました)
津田投手は、いきなり、川相昌弘選手に右前打、フィル・ブラッドリー選手に死球、原辰徳選手に左前打されて、あっさり同点とされ、山本さんはわずか9球で大野豊投手に交代していました。
(ただ、代わった大野投手も、岡崎郁選手に右前打を許し、結局、逆転負けしています)
山本浩二は監督就任3年目(1991年)津田恒実に「二軍に落として欲しい」と言われていた
すると、試合後、しばらくして、池谷公二郎投手コーチが監督室にやって来て、
津田が2軍に落としてくれと言ってるんですが・・・
と、言ったといいます。
そこで、山本さんは、即座に、
バカなことを言うな。1回打たれたくらいで・・・「頑張れ」言うといてくれ
と、返したそうですが…
津田恒美投手は1990年シーズン終了後から頭痛などの体調不良を訴えていた
実は、津田投手は、1990年シーズン終了後から、頭痛などの身体の不調を訴えていたそうですが(キャンプの時も、時々、頭が痛いと言っていたそうです)、山本さんは、風邪くらいにしか思っていなかったそうで、津田投手自身もまた、普通の頭痛だと思い、放置していたそうです。
そして、前年から続く体調不良を抱えたまま、1991年シーズンの開幕を迎え、この日(4月14日)も、無理を押して登板していたそうですが、
試合後、津田投手は、コーチ室を訪れ、池谷投手コーチに「もう野球をやる自信がなくなった」と言ったそうで、これを聞いた池谷投手コーチは風呂にも入らず1時間かけて津田投手を説得していたのだそうです。
「山本浩二は津田恒美の重病でチームがまとまり優勝していた!」に続く
1991年4月14日の津田恒実投手(左)と山本さん(右)。