ダイエー(現・ソフトバンク)から監督要請を受けた際、話を聞くだけのつもりでいたにもかかわらず、面会した中内功オーナーから、グイッと手を握られ、断れなくなると、相談した、恩師・根本陸夫さんにも背中を押され、監督を引き受けたという、田淵幸一(たぶち こういち)さんですが、前年9月に南海から買収されたばかりのダイエーは戦力不足で、トレードで補強をしたくても、交換する選手もいない状況だったといいます。

「田淵幸一はダイエーから客を呼べる監督としてオファーを受けていた!」からの続き

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南海の最後のドラフトでは1位指名に3位指名の契約金と年俸しか出していなかった

田淵さんが杉浦忠監督から引き継いだ2年目のダイエーホークスは、戦力は「旧南海」のままだったそうですが、実は、南海は、1987年の時点で、金銭的に切羽詰まっており、この年のドラフトでは、吉田豊彦投手(本田技研熊本)を1位で指名するも、

吉田投手によると、後日、挨拶に来たスカウトから、

1位で指名したが、君の本当の評価は3位。契約金も年俸も3位選手の分しか出せない。それでもよかったら入団してくれ

と、言われていたというのです。

(しかも、年俸も契約金も分割払いだったそうですが、吉田投手は、拒否することは出来ず、受け入れるしかなかったそうです)

トレードで選手を補強しようにも交換する選手がいなかった

そんな中、翌1988年9月には、ダイエーが南海を買収したことで、金銭面での苦労はなくなったそうですが、チームの「顔」となるべき選手がおらず、トレードで選手を補強しようにも、そもそも交換する選手がいなかったのだそうです。

(かと言って金銭で獲得できる選手は、たかだか知れていたそうです)

そのため、田淵さんは、現有戦力で戦うしかなく、佐々木誠選手、岸川勝也選手、藤本博史選手ら徐々に成長してきた若手を、いかに早く一人前の選手に育てあげるかにかかっている状況だったのだそうです。

(主軸だった門田博光さんは、家庭の事情で九州行きを拒否し、関西のオリックスに移籍していました)

ドラフトでは巨人入りを熱望する元木大介を1本釣りできるとスカウトから断言されていた

こうして、田淵さんは、監督に就任して最初のドラフト会議では、野茂英雄投手に8球団が競合する中、上宮高校の元木大介さんを1位指名しようと考えていたそうで、

ドラフト会議を翌日に控えた、1989年11月25日夜、開催場所の赤坂プリンスホテルに泊まっていた際、元木さんの担当スカウトを部屋に呼び、

野茂を外して外れ1位で元木が残っていたら指名したい。どうだ?獲れるか?

と、尋ねると、

担当スカウトは、

大丈夫です。獲れます

と、断言したのだそうです。

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元木大介が少年時代に南海ファンだったことに期待していた

というのも、元木大介さんは、春夏3度の出場で甲子園通算6本塁打を放った高校球界屈指のスラッガーで、1989年10月2日には、「巨人に行きたい」と表明しており、

ドラフト前日の11月25日にも、

憧れの巨人に入りたいという気持ちは前と変わっていません。他の球団に指名されたら光栄ですけどショック。困ります。他の球団に行くつもりはありません

と、語っていたのですが、

元木さんは、幼い頃、南海(ダイエーの前身)のファンで、少年野球チームのジュニアホークスに入っていたことから、指導した球団OBとのパイプもあり、担当スカウトは自信を持って田淵さんに元木さんを獲れると答えていたのでした。

「田淵幸一はダイエー監督時代に元木大介をドラ1で指名するも・・・」に続く

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