広島カープ監督就任3年目の1991年10月13日、監督として初のリーグ優勝を果たした、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、実は、この年、開幕早々に、津田投手が悪性の脳腫瘍であることが判明すると、9月には選手だけで決起集会が開かれるなど、チームが津田投手の為に一つになっていたといいます。

監督として初優勝を果たしビールかけを始める山本浩二

「山本浩二は津田恒美に「二軍に落としてほしい」と言われていた!」からの続き

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津田恒実は脳に悪性の大きな腫瘍が見つかっていた

1991年4月14日の巨人戦、1対0と広島リードで迎えた8回、先発の北別府学投手から津田恒実投手に交代するも、右前打、死球、左前打であっさり同点とされたことから、わずか9球で大野豊投手に交代すると、

その日の夜には、津田恒実投手から、池谷公二郎投手コーチを通して、「2軍に落としてほしい」と言われたという山本さんですが、

津田投手が、翌日(4月15日)、頭痛が長く治まらなかったことから、広島大学病院で検査入院し、精密検査を受けると、なんと、脳にかなり大きな腫瘍が見つかり、しかもその腫瘍は悪性で、手術できない所にあることが判明したといいます。

(山本さんは、これを聞き、耳を疑ったそうです)

広島球団は周囲の動揺を避けるため津田恒実の病気を「水頭症」と発表していた

そこで、広島球団は、周囲の動揺を避けるため、5月15日、上土井取締役球団部長が緊急会見を開き、マスコミには、本当の病名を伏せて「水頭症」と発表したのですが、

(津田投手は4月16日に風邪による体調不良として登録を抹消され、5月20日には準支配下選手とされています)

山本さんは、首位中日に7ゲーム差をつけられた7月上旬には、広島ナインに真実を伝え、

ツネ(津田恒実)のためにも頑張ろうじゃないか

と、選手たちを鼓舞したそうです。

(広島ナインも、重い病気であることを薄々気づいていたそうです)

山本浩二はなんとか津田恒美投手の病気を治せないものかと占い師や祈祷師にまですがっていた

ちなみに、その後、津田投手は、自宅や実家での療養を経て、福岡市内の福岡県済生会福岡総合病院に転院しており、山本さんは、東京遠征の時には、(お見舞いに行ってから)福岡経由で東京に入っていたそうですが、

なんとか津田投手の病気を治す方法はないかと、試合後にはスタッフを集めて、各人が入手した情報を出し合い、占い師や祈祷師にまですがるほか、広島ナイン全員でお札を帽子に入れて試合に臨んだこともあったのだそうです。

広島ナインは断トツ最下位の阪神に負けた翌日に決起集会を開いていた

一方、一時、首位の中日に7.5ゲーム差つけられていたチームは、じわじわと差を詰めていくのですが、9月4日、(借金30で断トツ最下位だった)阪神戦にサヨナラ負けすると、

その夜(深夜)、宿舎の宝塚ホテルで、選手会長の山崎隆造選手、達川光男選手、正田耕三選手が、膝を詰めて話し合い、

とても優勝争いしとるチームの戦いぶりとは思えん。ただ漠然と日々の試合を消化してるようだ。明日、みんなを集めて話したらどうか

という結論になったそうで、

翌9月5日、山崎選手を中心に選手だけで決起集会が開かれると、これをきっかけに、チームでは一段と声が出るようになったほか、凡退しても「次だ次!頑張れよ」と励まし合うようになるなど、明らかにベンチの雰囲気が変わったのだそうです。

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山本浩二は津田恒美の重病でチームが一つになり優勝していた

すると、広島は、この日(9月5日)の阪神戦に勝利し、阪神3連戦(甲子園)を2勝1敗と勝ち越すと、9月7日、8日の巨人2連戦(東京ドーム)は2連勝、そして、9月10日、首位・中日と1ゲーム差で迎えた中日3連戦(ナゴヤ球場)では3連勝し、ついに、勝率差で首位に躍り出たのでした。

以降、広島は勢いに乗り、そのまま優勝に突き進んだのですが、

山本さんは、津田さんへの想いがみんなを一つにまとめたと思っているそうで、スポニチの連載「我が道」で、

カープは勢いに乗ってそのままゴールに向かった。迎えた10月23日の阪神とのダブルヘッダー(広島)。第1試合は2対3で敗れたが、第2試合に佐々岡真司-大野豊のリレーで1対0完封でその瞬間を迎えた。

たくましくなった選手の手に体を委ねる。現役時代とは違った感激が体中を突き抜けた。グラウンドで異例のビールかけ。スタンドのファンにも見てもらった。

その輪の中で音頭を取っていたのは3年目で3番に定着し、打率3割2分4厘を残した野村謙二郎だった。

厳しく若手を育ててくれた鬼軍曹の大下剛史ヘッドをはじめとするコーチ陣、苦しい時期を支えてくれたベテラン、猛練習に耐えて力をつけてくれた若手・・・。

そしてみんなの心の中で一緒に闘ってくれた津田。その2年後に逝ってしまった彼を抜きに1991年の優勝は語れない。

と、綴っています。

(津田さんは、それから2年後の1993年7月20日、脳腫瘍により、32歳の若さで他界されています)

「山本浩二の監督時代(広島カープ)の成績は?」に続く

監督として初優勝を果たしビールかけを始める山本浩二
1991年10月23日、監督として初優勝を果たしビールかけを始める山本さん。

お読みいただきありがとうございました

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