実母が結核にかかったことから、2歳の時、実母の姉夫婦(伯母夫婦)に預けられるも、伯母夫婦は知人の借金のせいで家を差し押さえられ、そんな中、養父(伯父)が他界し、養母(伯母)が必死になって働き、育ててもらったという、美川憲一(みかわ けんいち)さんは、成長するにつれ、実母と養母(伯母)に楽な暮らしをさせてあげたいと思うようになったそうで、高校1年生で高校を中退し、一攫千金を狙って俳優を目指すと、「大映ニューフェイス」のオーディションに合格するも、6ヶ月の研修後、売れたらより稼げそうな歌手に転向したといいます。
「美川憲一は出生の秘密を中学生の時に知らされていた!」からの続き
美川憲一は高校を中退して俳優を目指すと「大映ニューフェイス」のオーディションに合格していた
美川さんは、中学卒業後、高校に進学するも、養母(伯母=実母の姉)の苦労を間近で見ていたことから、養母にはお金に不自由のない楽な暮らしをさせてあげたいと思っていたそうで、
芸能界で売れればお金が稼げると考え、高校を1年生で中退すると、ビルの清掃員、ウエイター、郵便局のアルバイト等で稼ぎ、そのお金で東宝芸能学校に入学したそうで、
(東宝芸能学校ではモダンバレエやタップダンスなどの授業や、芸能に関わる総合的な勉強をしたそうです)
1964年、「大映ニューフェイス」(第17期)のオーディションを受けると、見事合格し、俳優として大映に入社したのだそうです。
(養母としては美川さんを大学に行かせたかったそうです)
美川憲一は6ヶ月の俳優研修の後、より一攫千金が狙えそうな歌手に転向していた
こうして、俳優デビューを約束された美川さんは、大映で6ヶ月の俳優研修を受けたそうですが・・・
実は、東宝芸能学校卒業後、歌手としてデビューしないかとも声をかけられていたそうで、最終的に俳優か歌手かどちらかを選ばなければならなくなると、より一攫千金が狙える(歌がヒットすれば歌謡映画にもなってよりお金が稼げる)歌手に転向したのだそうです。
ただ、実母も養母(伯母)も女優志望だったことから、美川さんが俳優になることを期待していたそうで、2人からは、
あんた、俳優になるんじゃなかったの?
と、言われたそうですが、
美川さんは、
売れればお母さんたちに楽させてあげられるんだから!
と、言って説得したのだそうです。
そして、俳優研修所の所長には激怒されたそうですが、美川さんは養母とともに土下座して謝ったそうで、最終的には所長も、
この子は大成するから、僕たちも応援させていただくよ
と、笑顔で送り出してくれたのだそうです。
ちなみに、美川さんは、家財道具が全部差し押さえられている家で育ってきた経験から、歌手の世界に飛び込むことは全く怖くなかったそうで、
私の心の中に今でもどこか冷めてるところがあるのは、その体験(家財道具が全部差し押さえられてしまったこと)も大きいわね。
と、語っています。
美川憲一は「だけど だけど だけど」で歌手デビューするも全く売れなかった
こうして、俳優から歌手に転向した美川さんは、古賀政男さんの指導を受け、1965年、19歳の時、ファーストシングル「だけど だけど だけど」で、青春アイドル路線で歌手ビューしたのですが・・・
全く売れなかったそうで、
美川さんは、
育ての母が新橋のレコード店に行き、「美川憲一のレコードが欲しいんですけど」と言ったら、「ないねえ」と言われてショックだったと言っていました。
全国キャンペーンもしました。木賃宿に泊まって、初めての五右衛門風呂ではふたを沈めないで入ったからアッチッチ。寝るのは、ゴザの上のせんべい布団。南京虫に刺されました
と、語っています。
美川憲一は歌手デビュー当時は個性がないと言われていた
ちなみに、この頃、美川さんは、挨拶回りをするたびに、
なんか暗いね、売れないよ
と、言われるほか、線が細すぎる、個性がなさすぎるなどと言われたそうで、
美川さんが、養母に愚痴ると、
個性は自分でつくるもので、自然に出てくるものだから、気にしたってしょうがない
と、言われたそうで、
以来、美川さんは、鏡を見ては、個性、個性・・・と唱えるようになったそうです。
「美川憲一が若い頃は「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒットも当初は嫌々歌っていた!」に続く