3歳の時、お父さんにプラスチックのバットとボールを買ってもらうと、しばしば、昼間は小学3年生のお兄ちゃんに野球の相手をしてもらい、夜は家の中でお父さんに相手をしてもらっていたというイチローさんは、小学校に入る頃には、ますます野球にハマったそうで、小学3年生の時には絶対プロ野球選手になるという強い気持ちが芽生え、お父さんと毎日かかさず野球の練習をするようになったといいます。
「イチローの偏食は幼少期から!頑固で嫌いな物は絶対食べなかった!」からの続き
イチローは小学校入学後は週に4~5回父親と野球の練習をしていた
3歳の頃には、一緒に野球をしてくれたお兄ちゃんも、イチローさんが、1980年4月、豊山小学校に入学した時には、小学6年生になり、(1年生のイチローさん相手では退屈で)相手をしてくれなくなったそうで、
イチローさんは、自宅の近所で工場経営をしているお父さんのところに行っては、
お父さん、キャッチボールしよう
ねえ、グラウンドに行って、野球しようよ
と、お父さんを誘うようになったそうです。
(お父さんの話によると、お父さんは、仕事の最中でも、イチローさんに付き合ったそうです。また、保育園時代は、週に2~3回だった野球ごっこが、小学校に入った頃には、週に4~5回になっていたそうですが、毎日決まった時間に決まった場所でといった規則正しいものではなく、あくまでイチローさんの気分次第だったそうです)
イチローは小学校の時はバッティング練習のほか投球練習もしていた
また、お父さんの話によると、お父さんは、イチローさんに、バッティング練習のほか、投球練習もさせたそうですが、
それは、イチローさんの性格が大胆さと繊細さを併せ持っていたことからピッチャーに向いていると思っていたことや、ピッチャーの練習をしておけば、自分がバッターとして打席に立った時、相手ピッチャーの心理が分かると思ったこと、バッターでダメならピッチャーでという思いがあったからだそうです。
(イチローさんは、臆病で気が小さかったそうですが、ユニフォームを着てグラウンドに立ち、バットやボールを持つと、持って生まれたヤンチャで聞かん坊な性格が現れ、人が変わったように大胆な子になったのだそうです)
イチローは小2の時に町内行事の「親子ソフトボール大会」に出場し投手としてチームを優勝に導いていた
さておき、イチローさんは、小学2年生になると、ますます野球に熱中するようになったそうで、
ユニフォームを着て、野球をしたい
と、思うようになったそうですが、
スポーツ少年団に入ることが出来る年齢は小学校3年生からで、イチローさんは、もっぱらお父さんとの遊びで我慢していたそうです。
そんな中、小学2年生の夏休み、毎年恒例だった地元・豊山町の町内行事「親子ソフトボール大会」が開催される2~3週間前に、
イチローさんとお父さんが日頃から熱心に野球をしていることを知っていた参加者のお母さんから、
イッくんをピッチャーとして貸してくれませんか
と、誘われたそうで、
イチローさんとお父さんは喜んでこのお誘いを受け、さっそくお父さんの工場の前の空き地でソフトボールのピッチング練習を開始し、大会に備えたそうです。
(この「親子ソフトボール大会」はお母さん3人、小学生6人でチームを編成し、十数チームが参加して行われるトーナメント戦で、本来は、3年生以上の子供しか出場できないところ、「年齢が下なら構わないでしょう」という大会本部の判断で、2年生のイチローさんは特別に参加させてもらうことができたのだそうです)
そして、大会当日を迎えると、イチローさんは見事に最後まで投げきり、チームを優勝に導いたそうで、他のお母さんたちが口々に、
ナイスピッチング、イッくん
初出場で優勝しちゃうなんて、イッくんすごい
お父さん、イッくんの将来が楽しみですね
などと、言ってくれたそうで、
イチローさんは、少し誇らしく感じたといいます。
(それまで、イチローさんは、気が向いた時だけ、親子二人でキャッチボールやバッティングをやってきただけだったため、お父さんは、イチローさんの技術や体力を同年代の子供と比べる機会がなく、正直、イチローさんのレベルがどれくらいなのか分からなかったそうですが、この試合でのマウンド度胸と初勝利を見て、密かに、イチローさんに野球のセンスがあることを感じ、野球選手としての将来を楽しみにするようになったのだそうです)
イチローは小3の時に絶対プロ野球選手になるという強い気持ちが芽生え、父親と毎日野球の練習をすることを約束していた
そんなイチローさんは、お父さんによると、小学3年生を目前に控えたある日、
お父さん、ぼく、どうしても野球がやりたい
と、申し出てきたそうで、
お父さんも、
一朗のやりたいことなら、お父さん、喜んで毎日一緒に相手をするよ
と、言い、
イチローさんと”指切りげんまん”をして、毎日野球の練習をすることを約束したのだそうです。
(お父さんは、イチローさんがあまりにも真剣な目をしていたことから、イチローさんの心の中にはこの時すでに「絶対プロ野球選手になるんだ」という強い気持ちが芽生えていたことを感じ取ったそうで、毎日練習に付き合ってあげられるか一抹の不安を感じたものの、イチローさんの真剣な表情を目の当たりにし、不安な気持ち以上に、親として子供の申し出に対して何としても応えててやりたいという気持ちの方がはるかに上回り、即座に答えたのだそうです)
イチローは小3の時、父親と毎日野球の練習をするも楽しくて仕方がなく、特訓している感覚はなかった
こうして、早速、その翌日から、イチローさんとお父さんは、本格的に”野球遊び”をするようになったそうで、
(周囲の人から見ると、親子二人で特訓しているように見えたそうですが、イチローさんもお父さんも、毎日野球をして遊び、楽しんでいたことから、特訓しているという感覚はなかったそうです)
イチローさんが、毎日、午後3時半前後に、学校や習い事を終えて一度家に帰った後、グローブを持って、お父さんが経営している工場に行くと、
お父さんが、ボール70個と巻き尺が入ったボストンバック、ホームベース板とキャッチャーミット、バット1本を持ってくれ、
工場から300メートルほど離れたところにある町営の伊勢山グラウンド(田んぼの中にあるわずか60メートル四方の土の多目的広場)へ、意気揚々として向かったそうで、
そこでは、まずは肩慣らしを兼ねた軽いキャッチボールから始まり、ピッチングを40~50球、次にティーバッティングを70球ワンセットとして3本、その後、内・外野のノックをそれぞれ50球、最後にフリーバッティングを20~30球といった練習メニューをしたそうですが、
イチローさんが中学に入るまでの4年間、ほぼ毎日繰り返しやったそうで、よほどの大雪や台風でない限り休んだことはなく、一年365日毎日続けたのだそうです。
(ただ、お父さんによると、これらのメニューは、お父さんが毎日順番を入れ替えたり、投球数やバッティング回数を変えたり、イチローさんが飽きないように工夫したそうで、時には、気分転換に、野球からまったく離れ、グラウンドの真ん中で相撲をとったりもしたそうです)
イチローは小3の時、父親と毎日野球の練習をしていることが近所で陰口を叩かれるもも反骨精神で跳ね返していた
ちなみに、イチローさんとお父さんが、毎日、伊勢山グラウンドに通うようになってからしばらくすると、近所の人たちには陰口を叩かれるようになったそうですが、
そんな周囲の声をお母さんを通して知ったお父さんは、あえてイチローさんにも伝え、
一朗、こういうことを言っている人もいるみたいだけど、お父さんは一朗がプロになれると信じている。だから、頑張るんだよ。
一朗、あんなこと言ってる人たちに負けないように頑張るんだよ
と、励ましたそうで、
イチローさんも、このような皮肉めいた声や中傷めいた雑音に対し、
よし、今に見てろ
負けてなるものか
と、反骨心が湧いてきたといいます。
イチローは小3の時からスイングしたバットを瞬時に止める技術を持っていた
また、お父さんによると、ティーバッティングでは、お父さんがイチローさんの斜め前方2メートルほどのところに片膝をついてボールを投げ、そのボールをイチローさんが、お父さんのすぐ背後に張ってある防護ネットに向かって打ち返していたそうですが、
コントロールミスをして、ネット方向にうまく打ち返せないような外角よりのボールを投げてしまっても、イチローさんはボールを打つ直前に、スイングしたバットを瞬時に止める技術をすでに持っていたそうで、その瞬間的な判断の速さと敏捷(びんしょう)性は、小学生離れしていたのだそうです。
(この練習は一歩間違えれば、ボールがお父さんの身体を直撃する危険性があったのですが、幸いなことに、イチローさんが小学校を卒業するまでの4年間、イチローさんの打ち返したボールがお父さんに当たったことは一度もなかったのだそうです)
イチローは小3の時からバッティングセンターに通うようになっていた
そして、イチローさんが一番好きだったのがフリーバッティングだったそうで、イチローさんは、約60メートル先にある高さ5メートルの防護ネットの上を行くようなホームランを常に狙ってフルスイングしていたそうですが、
まだ小学校3年生のパワーでは、なかなかオーバーネットせず、ましてや、軟球を使っていたこともあって、ホームランはそうそう飛び出すものではなかったそうです。
ただ、守っているのはお父さんだけだったことから、ゴロのライナー性のあたりでも大半のボールは点々と60メートル先のネットまで転がっていってしまったそうで、
10球も続けて打つと、一度休んでボール拾いをしなければ、ボールを見失ってしまったそうで、ボールの回収が大変だったことから、やがて、お父さんの提案で、町内にある空港バッティングセンターに通うことになったのだそうです。
イチローは小3の時からスポーツ少年団の子供たちとの力の差が歴然だった
そして、1982年4月、イチローさんは、小学3年生になると、待ちに待った豊山町のスポーツ少年団に入団したそうで、
それ以来、毎週日曜日の午前9時から12時までの3時間、家から徒歩10分ほどのところにある町立志水小学校の校庭で行われていたスポーツ少年団の練習に参加したそうですが、
スポーツ少年団の練習はわずか週1回、しかも3時間だけだったことから、毎日毎日、来る日も来る日もバットとボールで遊んでいるイチローさんと他の子供たちの力の差は開く一方で、
投げる球の速さも打つ球の速さも飛距離も、その差は歴然で、特に、イチローさんのバットでボールの芯を捕らえるミートの技術は群を抜いていたといいます。
(イチローさんがスポーツ少年団の入団を間近に控えたある日のこと、家にスポーツ少年団の関係者から電話がかかってきて、お父さんに監督として参加してほしいと誘いがあったそうで、お父さんは、子供たちを指導する専門的な技術もなければ、理論も持っていなかったそうですが、ただただ、イチローさんと一緒に野球がしたかったことや、イチローさんを他人に預けたくない気持ちから、監督という大任への誘いをありがたく思い、迷うことなく引き受けたそうです)
「イチローの中学時代が凄い!130kmの球を12mの至近距離から打ち返していた!」に続く