日の丸をつけてW杯に出場することを目標に、1982年、15歳でブラジルにサッカー留学し、1985年、18歳の時には、日本人初となるブラジルでのプロ選手契約を勝ち取ると、強豪クラブでレギュラーの座を獲得する活躍をみせ、1990年、23歳で、日本へ帰国した後も、日本代表のFWとして活躍した、三浦知良(みうら かずよし)さん。

今回は、そんな三浦知良さんの、若い頃から現在までの経歴を時系列でまとめてみました。

三浦知良

「三浦知良の生い立ちは?サッカーは3歳から!高校中退してブラジル留学していた!」からの続き

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三浦知良の10代の頃

19歳の時に「サントスFC」とプロ契約しサンパウロ州選手権のジュベントス戦でデビュー

ブラジルに来て4年目の1986年2月、19歳の時に、サンパウロ州の名門クラブ「サントスFC」とプロ契約を交わした三浦知良さんは、

同年3月下旬には、北米遠征に参加し、3月26日には、メキシコシティで行なわれたチーバス・グアダラハラ戦に途中出場すると、4月9日、サンパウロ州選手権のジュベントス戦で初先発(デビュー)するのですが、緊張のあまり、ミスを連発してしまったそうです。

ちなみに、三浦知良さんによると、この時のプレーを、チームメイトのドゥンガさんにこっぴどく叱られたそうで、その迫力に驚き、萎縮(いしゅく)して何もできなくなってしまったのだそうです。

(ドゥンガさんは、遠征先などで同部屋になるとすごく優しかったそうですが、試合になると汚い言葉でうるさく罵(ののし)っていたそうで、ブラジル代表でもベベットさんに怒鳴り散らしているのを何度も見たそうです。そのため、三浦知良さんは、後に、ドゥンガさんは、いつも、ああいう人なのだと、それほど気にする必要はなかったかもしれない、と思うようになったそうですが、当時、まだ19歳だったこともあり、叱られたことで萎縮してしまったのだそうです)

19歳の時、「サントスFC」では出場機会に恵まれなかった

また、三浦知良さんは、19歳でプロデビューを果たしたものの、「サントスFC」には、同じポジションに、ゼ・セルジオさんがいたこともあり、出場の機会に恵まれず、

ようやく出場した試合でも全力を発揮できずに終わってしまったのだそうです。

(ゼ・セルジオさんは、小柄ながらテクニックがあり、決定力も高く、絶対的なレギュラーだったそうです)

ブラジル・サントス時代の三浦知良
ブラジル「サントスFC」時代の三浦知良さん。

19歳の時には「パルメイラス」と特別契約を結び日本のキリンカップに参戦するも・・・

ちなみに、三浦知良さんは、1986年5月、「パルメイラス」がキリンカップに招待された際、主催者からの要請でこの期間だけ「パルメイラス」に加わり、日本代表の奥寺康彦さんが所属していた「ブレーメン」などと対戦したそうですが、

これは、ブラジルでプレーする日本人ということで招待されただけで、本物のプロとして認められたわけではなかったそうです。

三浦知良の20代の頃

20歳の時にはパラナ州の「SEマツバラ」と契約

さておき、キリンカップからブラジルに帰国し、「サントスFC」に復帰した三浦知良さんは、1986年6月には、他州のクラブとの強化試合に出場するのですが、効果的なプレーができなかったそうで、

名門「サントスFC」でプレーするにはまだ力不足だと判断し、他クラブで武者修行させようという、父・納谷宣雄さんの考えで、

三浦知良さんは、1986年10月には、ブラジル南部の田舎町にあるパラナ州の「SEマツバラへレンタル」に(期限付き)移籍します。

(マツバラは綿栽培で成功した日系人が創設したサッカークラブだったそうです)

20歳の時にはブラジル南部三州リーグ優勝に貢献していた

こうして、1987年2月、「SEマツバラ」と正式契約を結んだ三浦知良さんは、南部三州リーグで、左右のウイングとしてレギュラー出場すると、南部三州リーグ優勝に貢献。

三浦知良さんの、ドリブルで1対1の勝負に挑み、切り替えしや跨(また)ぐフェイントを駆使して縦に抜け、クロスを入れて決定機を作るプレースタイルは注目を集め、

三浦知良さんは、「ガリンシャ・ジャポネス」(日本のガリンシャ)と呼ばれるようになったのでした。

(ガリンシャさんは、ブラジルフットボール史上最高の右ウイングで、抜群のスピードとテクニックを兼ね備えていたそうです)

20歳の時には「クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)」に移籍し、得意なドリブルで観客を魅了していた

その後も三浦知良さんは、ブラジル南部の田舎町のクラブで腕を磨き、1987年10月、20歳の時には、ブラジル北部の海岸町、アラゴアス州の「クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)」に移籍すると、このクラブでもレギュラーとして活躍。

得意なドリブルで観客を魅了し、ここでも「ガリンシャ・ジャポネス」と呼ばれて人気を博したのでした。

(ただ、相変わらず、多くのチャンスは作り出すものの、ゴールにはならなかったそうです)

21歳の時には「キンゼ・デ・ジャウー」に移籍し「コリンチャンス・パウリスタ」戦で初得点を記録

そして、三浦知良さんは、1988年2月、21歳の時、かつてユース(20歳以下)時代に所属していた、「キンゼ・デ・ジャウー」とプロ契約を結ぶと、同年3月19日には、「SCコリンチャンス・パウリスタ」戦で、初得点を記録し、勝利の立役者となります。

(格上の人気チーム相手に3-2で勝利)

キンセ・デ・ジャウー時代の三浦知良
キンゼ・デ・ジャウー時代の三浦知良さん。

22歳の時にパラナ州選手権で優勝に貢献

また、三浦知良さんは、1988年10月には、ブラジル南部パラナ州の「コリチーバ」へ移籍すると、選手層が厚い「コリチーバ」でも主力として活躍し、

1989年2月、21歳の時には、8月まで行われたパラナ州選手権での「コリチーバ」の優勝に貢献します。

22歳の時にはブラジルへ遠征してきた日本代表と対戦

1989年7月には、ブラジルへ遠征してきた日本代表と対戦すると、将来の日本代表を意識し、盛んにドリブルを試みたそうですが、ここでは、力が入りすぎてミスを連発してしまったそうです。

(試合は、コリチーバが1対0で勝利しています)

また、この年(1989年)の9月から12月まで行なわれたブラジルリーグにも出場し、ブラジル各地の強豪クラブと対戦したそうです。

23歳の時には、古巣「サントスFC」に復帰

三浦知良さんは、1990年2月、23歳の時には、4年ぶりに古巣「サントスFC」に復帰すると、同年4月29日の「パルメイラス」戦で、1得点1アシストと活躍し、「サントスFC」を2対1の勝利へと導きます。

サントス時代の三浦知良
「サントスFC」時代の三浦良和さん

23歳で「ヴェルディ川崎」に移籍

そんな三浦知良さんは、日本代表としてW杯に出場することを目的としていたことから、日本でもプロサッカーリーグ(Jリーグ)発足が現実味を帯びていた、1990年8月、23歳の時には、日本サッカーリーグの「読売サッカークラブ」へ移籍。

ただ、当初は、監督との確執や日本のサッカーになかなか馴染めなかったことから、出番に恵まれない日々を送っていました。

それでも、1990年10月28日の日本リーグ開幕戦の「NKK」戦では、自らPKでゴールし1点を挙げるほか、菊原選手、武田選手、ラモス選手のアシストと、全得点に関わる活躍で、「読売サッカークラブ」の4対0での勝利に大きく貢献すると、

この試合で結果を残したことで、少しずつチームメイトの信頼を得て、キレのあるドリブルと正確なキックで、人気以上の実力を見せるようになり、このシーズン、「読売サッカークラブ」の日本リーグ優勝に大きく貢献し、リーグのベストイレブンにも選ばれたのでした。

(ちなみに、「読売サッカークラブ」は、1992年から「読売日本サッカークラブ」、1999年から「FCニッポン」、2009年から「東京ヴェルディ1969」と正式名称を変更しているのですが、呼称は、1992年から「ヴェルディ川崎」、2001年から「東京ヴェルディ1969」、2008年から「東京ヴェルディ」に変更しています)

25歳の時には「ヴェルディ川崎」を優勝に導き、大会MVPにも選出されていた

そして、その後も、三浦知良さんは、1992年、25歳の時には、

  • 「第71回天皇杯全日本サッカー選手権」準優勝(日産戦)
  • 「第27回日本サッカーリーグ」優勝(最優秀選手賞、ベストイレブン賞受賞)
  • 「富士ゼロックスチャンピオンズカップ優勝」(トヨタ戦)
  • 「第1回Jリーグナビスコカッ」優勝(最優秀選手賞受賞。得点王(10得点))
  • 「日本代表、北京での第2回ダイナスティカップ」優勝(最優秀選手賞受賞)
  • 「日本代表、第10回アジアカップ(広島開催)」優勝(最優秀選手賞、アジアベストイレブン賞受賞)

と、様々な大会で、ヴェルディ川崎を優勝に導き、大会MVPにも選出される活躍を見せたのでした。

ヴェルディ川崎時代の三浦知良
「ヴェルディ川崎」時代の三浦知良さん。

25歳の時に「エスパルス」からオファーを受けるも「ヴェルディ川崎」に残留

ちなみに、三浦知良さんは、この年(1992年)、地元である「清水エスパルス」からのオファーを受け、移籍に前向きな姿勢を示していたそうですが、そのまま「ヴェルディ川崎」に残留しています。

26歳の時には、Jリーグで活躍

また、三浦知良さんは、Jリーグが開幕した1993年、26歳の時には、新主将に選出されると、シーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決める活躍で、チームの年間優勝に大きく貢献するほか、

  • 「サントリーシリーズ」第2位
  • 「第2回 Jリーグナビスコカップ(清水戦)」優勝、二連覇達成
  • 「ニコスシリーズ」優勝
  • 「日本代表第6回アジア・アフリカ選手権(コートジボワール戦)」優勝

にも大きく貢献し、「第1回MVP」「日本年間最優秀選手賞」「アジア年間最優秀選手賞」を受賞しています。

1993年の三浦知良
1993年、Jリーグ開幕当初の三浦知良さん。

26歳の絶頂期には、W杯米国大会のアジア最終予選のイラクとの最終戦で終了目前に同点に追いつかれていた(ドーハの悲劇)

そんな三浦知良さんですが、1993年10月、26歳の絶頂期で臨んだW杯米国大会のアジア最終予選では、日本のエースとしてゴールを量産したものの、イラクとの最終戦では、終了目前のロスタイムで同点に追いつかれ、ほぼ手中にしていた本大会への出場権をあと一歩のところで取り逃がしてしまい、

著書「おはぎ」で、

(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた

と、綴っています。

(このことは世間では「ドーハの悲劇」と言われました)

ドーハの悲劇の三浦知良
「ドーハの悲劇」で呆然とする三浦知良さん。

27歳の時にイタリア・セリエAの「ジェノアCFC」に移籍するも成功を収めることはできなかった

三浦知良さんは、1994年、27歳の時には、イタリア・セリエAの「ジェノアCFC」へレンタル(期限付)移籍し、9月4日の「ACミラン」との開幕戦で先発出場し、セリエAデビューを果たしているのですが、前半28分の時に、フランコ・バレージ選手とヘディングで競った際、バレージ選手の後頭部が顔面を直撃。

前半戦こそプレーしたものの、後半戦は欠場して医療機関で検査を受けたところ、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷していることが判明し、1ヶ月の戦線離脱を余儀なくされてしまいます。

それでも、復帰後の1994年12月4日には、サンプドリア戦で先発出場すると、前半13分にセリエAとして4試合目の出場で、アジア人として初のゴールを記録するのですが・・・

これがジェノアでの唯一の得点となり、成功を収めることはできませんでした。

(3度の監督交代など様々な事情も重なりました)

28歳の時に「ヴェルディ川崎」に復帰し、29歳で得点王に輝く

こうして、「ジェノアCFC」では思うような活躍をすることができなかった三浦知良さんですが、1995年、28歳の時、古巣「ヴェルディ川崎」に復帰すると、

第2ステージからの出場にもかかわらず、26試合で23ゴールを挙げる活躍を見せ、得点ランキングの上位に名を連ねます。

そして、2年目の1996年、29歳の時にも、得点王(23ゴール)に輝く活躍で、「第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会」優勝に大きく貢献したのでした。

三浦知良の30代の頃

30歳の時にW杯アジア最終予選での韓国戦で崔英一選手からのラフプレーで尾てい骨を骨折

しかし、そんな三浦知良さんも、1997年、30歳になると、寄る年波には勝てず、故障がちとなり、追い打ちをかけるように、フランスW杯アジア最終予選での韓国戦では、崔英一選手からのラフプレーで尾てい骨を骨折してしまいます。

韓国代表の主将である崔英一選手は、3バックの一角、ストッパーとして三浦知良さんを徹底的にマークすると、三浦知良さんにボールが渡ればバックチャージ(背後からアタックすること)も辞さず、プレーキック時の位置取りではユニフォームを掴んだり、胸に肘鉄を食らわせるなどしており、

(これには、普段は冷静な三浦知良さんも激昂したそうです)

崔英一選手が三浦知良さんをチャージ(タックル)した際に、崔英一選手の膝が三浦知良さんの臀部を直撃し、尾てい骨を骨折したのですが、

崔英一選手は、このことについて、

ミウラのケガ? 知らないね。そんなに大したことはないだろう。それに日本は結局ワールドカップに行ったじゃないか

と、何食わぬ顔で言ってのけています。

31歳の時にワールドカップ直前で代表から外されていた

三浦知良さんは、この時のケガが原因で、パフォーマンスを落とし、1998年、31歳の時には、W杯前の4月に組まれた韓国戦でメンバー落ち。

5月には代表復帰も、強化試合では出番はなく、それでも25人の合宿メンバーに選ばれると、練習試合では、ハットトリック(1試合3得点)を達成するなど、合宿中に復調の気配を感じさせていたのですが・・・

ワールドカップ直前で代表から外されてしまいます。

三浦知良さんは、失意の中、イタリア・ミラノへ向かい、3日後の朝に帰国すると、成田空港で行われた記者会見では、悔しさを押し殺しつつ、

日本代表としての誇りと魂みたいなものは、向こうに置いてきた

と、仲間へエールを送ったのでした。

三浦知良と北澤豪
同じく代表から外れた北澤豪さん(右)と記者会見を開く三浦知良さん(左)。

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三浦知良の32歳から現在まで

その後、三浦知良さんは、

  • 1999年(32歳)には、クロアチア・ザグレブ、京都パープルサンガ
  • 2001年(34歳)には、ヴィッセル神戸
  • 2005年(38歳)には、横浜FC、シドニーFC
  • 2006年(39歳)には、横浜FCに復帰
  • 2022年(55歳)には、鈴鹿ポイントゲッターズへ期限付き移籍
  • 2023年(56歳)には、横浜FCに復帰、ポルトガル2部のUDオリヴェイレンセへ期限付き移籍

と、変遷し、2024年、57歳現在も、サッカー選手として活動しています。

三浦知良

「三浦知良の妻・りさ子との馴れ初めは?結婚後はW不倫?別居の真相は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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